富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

遠方商品 三重熊野古道純卵

fookpaktsuen2012-01-31

農暦正月八日。また寒空。昼に20年ぶり?で中文大学崇基学院の学生膳堂に飰す。不味さ不変。安い(セットランチでHK$19だ)から文句は言へないが。今日も眩暈が続くうえに動悸が激しい。心拍数といふのは成人の男性の場合、正常は60〜70なんださうだがアタシの場合、毎朝、血圧を測るがだいたい90くらゐで今日は昼間に気になつて測つたら105だつた。運動をしてゐるわけでもないのに机に倚つてこれぢゃまずい。運動と節制が大切なのだが運動するにも眩暈してゐては走るのも怖く、せめてもの運動に、と帰宅途中3站ほど自宅まで歩く。が大気汚染で身体には悪い散歩。レバー焼いて飰す。二日続けて酒抜き……が意外と快適。眠くならず読書進む。太田越『きだみのる 自由になるためのメソッド』続き読む。きだ(山田吉彦)の著作のなかでも今、入手困難で最も重要な、且つ著作のなかでも初期=戦前に位置する『モロッコ紀行』(戦後の岩波新書『モロッコ』とは別)についてかなり詳細に分析がされてゐるのが面白い。単にモロッコの紹介でなく民族と国家に関する「きだ」先生の言葉。

一切の民族社会の発展は自己の血を流すことによって(略)脱皮しなければならない。社会の発展は血を以て贖われている。(略)自己の脱皮のために血を流す機会を捨てた民族は単に発展を抑止されてゐるばかりでなく、なほ民族として解体の軌上にある。(略)一民族の依って立ってゐる地盤が、平和の畳の上で死んだ者より自己の血を民族の生命に混ぜた者の上に立脚していることを想起すべきであると。この血で惜しむ時、或はこの血を有効に流せない環境に押込められたとき一つの民族は自己を以て歴史の上に存在することことは許されない。一つの民族に対して平和は敗戦以上の惨害を与へ得る。これが民族の宿命的な現実的な運命である。

と「気違ひ部落」からは想像も出来ぬ意気盛んな民族国家論。この「モロッコ紀行」が昭和18年の出版で、この発言も戦時下で時局的、戦争融合的と思へなくもない。が微妙なところだが、これが支配される側、モロッコであり日本でいへば朝鮮、中国といつた側から見れば立派な民族独立論となる、と。確かに。戦後この「モロッコ紀行」がきだ自身によつても封印されたのは、かうした主張が戦後の言論界では通用しないものだつたからだが敢へていへば今の日本の状況から見ても日本の非革命的な近代史からすると「自己の脱皮のために血を流す機会を捨てた民族は単に発展を抑止されてゐるばかりでなく、なほ民族として解体の軌上にある」といふ指摘は肯けるところあり。たゞ、だからといつて橋下維新や石原的な国家主義とは全く違ふ解釈で、なのだが。血も流してをらぬ近代市民革命を経てをらぬ似非近代社会であるからこそ「大きな子どもたち」からヘンな維新が叫ばれるんだらうが。
▼「遠方商品」といふ言葉。郷里の畏友J君に教へられたが放射線被害心配な地元の超級市場で例えば三重の鶏卵が「遠方商品」と名乗つて売られてゐる由。核禍被災地から離れた北海道や西日本などからの「遠方野菜」といふ言葉の方が比較的普及してゐる。「遠方商品」はGoogleでも検索に引っかからないほど未だマイナーな言葉。郊外の近郊野菜、地元野菜が新鮮で安全だつた時代が懐かしい。それにしても三重県産鶏卵、ではなくなぜ三重熊野古道純卵とまで銘打たねければならぬのかしら。熊野権現の霊験でも卵に含まれてゐるのかしら。それはそれで含有物多し?