富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

橋下惨禍と、なだいなだ「権威と権力」

十一月廿八日(月)晴。晩に銅鑼湾の魚八水産で数名の食事会あり末席を汚す。宴会のあとバーS。アタシをまだ先生と呼ぶ旧知のF君と遭ひ先週のキーシン演奏会の話など款語尽きず三更に入つたのを機に帰宅。なだいなだ著「権威と権力」を橋下惨禍で再読。1974年に出たこの本は高校生のときと大学の卒論資料で読んでゐたが朝日新聞に数週間前、朝日新聞の文化欄に「まず自由であること」とこの本が紹介され(樋口大二記者)、なださんがじつはこの本は「アナーキストの理想」であり「本当の楽観主義というのは、楽観する余地がないときでも、ほんのわずかでも希望があればそれに賭ける人間です」と語つてをられ、それが一昨日の大阪での狂言痴気に遭遇し、なださんのこの言葉に縋るやうな気持ちで再読。英雄待望論と強い指導者への委託。「権威を感じ、いうことを聞く人間は依存者の心理を持っている」「権威は決して権威者の内部で自覚されない。だから権威ある人間としてふるまとうとする人間は権威的になる」「ぼくらちは判断を委ねる以上、そこで僕たちが判断する以上に正確でよりよい判断が出されてほしいと考える」となださんの言葉がしみ/\。たヾ橋下惨禍が複雑なのは、本来「自分より上の、自分の能力を越えた人間の判断だというように信じたい」のが権威指向のはずだが果たして大阪人が橋下を「自分より上」と信じてゐるか。きつとさう思つてゐない(笑)。自分と同じレベルでの発想で代弁者。時代の閉塞感、誰も大阪勃興が出来ない、なら「任せてみよか」……だと思ふと大阪人は賢明なのか。たヾ問題はこの「任せてみよか」が大阪勃興だけに留まらないこと。国政への野望、橋下と同種の名古屋や横浜の動き、そしてこれを担ぐみんなの渡辺、国民亀井、石原慎太郎の無責任な思惑。とにかく橋下に「変なもの」が収斂されてゐる感あり。少なくてもアタシ自身はなださんの仰る「権威を感じない、認めない自己」となりたい。そして無理に「まとまり」を求めないこと。なだいなだはこんな思想で全てが解決するとは思つてゐないのだが自分はせめてさうして生きていきたい、と。こんな考へが昔この本を読んだときはなんて軟弱と思つたのだが今のような気違ひ跋扈の世の中になるとアタシはそんな考へにつく/\共感するところあり。
朝日新聞に「独裁者とよばれて」ナベツネの長いインタビュー記事あり。読売新聞は周囲がナベツネの意向に合うよう周囲が忖度してゐないか、といふ指摘に「そんなごますりばかりじゃ新聞社は成り立たないよ」と言ひつゝナベツネの思ひと違ふ社論が決まることは?には「ふむ、それはあんまりないね」とこの人は明らかに大いなる自信で独裁を楽しんでゐる。政界との距離の近さに

読売新聞の社論を実行できる内閣になるなら悪いことではない。そういう内閣に知恵を授けて具現化するのは僕には正義だし、合理的なことだ。朝日新聞の社論通りに実行する内閣なら倒さなければならない。

と言って、憚らぬナベツネ。まぁ朝日新聞の社論通りの内閣なんて成立しないからナベツネの心配は無用。むしろ読売の社説のやうな国は真っ平御免。まぁナベツネが他界せば読売も良くも悪くもカラーは変はるだらうが。ところでナベツネが中曽根大勲位に書いてもらつたといふ「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑」の揮毫は大勲位の悪筆も然ることながらナベツネが終生一記者なんてこれ以上の嘘はあるまひ。

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)