富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2011-07-10

七月十日(日)晴。朝から早晩まで九龍東に出仕事。葵芳。Z嬢と葵涌廣埸商場で待ち合わせZ嬢待つ間に場内一巡。素敵な商品、溢れる夢。「濃さ」「エグさ」ではけっこう香港有数かも。Z嬢と久々に場内のSoulmate珈琲で一服。珈琲美味至極。アタシは香港で此処の珈琲が一番美味いと思ふ。若いご亭主に「久しぶり。一年ぶりかな?」といはれる。確かに。九月でこの場内の賃貸契約切れ退去の由。まだ移転先決まらず、と。この商場内で希有の文化が漂ふ小さな珈琲屋だが追ひ出されるのは恐らく、この珈琲屋だけぢゃなく、もう賃貸契約がいつたい誰が誰と結んでゐるのか解らぬほどの雑居が現状で賃貸料高騰の折、一旦、ワケのわからぬ店子を全て追ひ出して大型商場として新装開店が意図かしら。それにしても間口1間半くらゐでこの場末の商場だから、で営業して来た人気の珈琲屋はどこに移転できるかしら。他人事ながら気になるところ。美味い珈琲だから、とこれでそれぢゃ店の規模を大きくする、銅鑼湾尖沙咀に移る、で成功するかどうかも微妙。あの雑多な商場のほんと隅の一角にこんな美味い珈琲を飲ませる店があることの素晴らしさ。難しいところ。それにしてもアタシのような稀客にかうして丁寧に接してくれて嬉しいかぎり。近ければ頻に訪れるのだが。九龍バスの31Mといふ路線バスで(Z嬢もよくかういふ路線バスを見つけてくる)石籬といふ公団団地近く。そこの百樂門といふ料理屋で旧知のF氏の婚宴に末席を汚す。旧知の面々で一卓を囲み歓談款語。葵涌商場の鄙びた酒屋で主人の勧めに応じて購つた豪州のPondalowieなるワイナリー、 Shiraz Cab Tempranilloを抜栓。予想以上に美味。しかも日本で3千円余がHK$180だつたかな、で割安。この「酒軒」なる、いかにも酒仙といるた風情のおやぢの営む間口一軒奥行き三尺の酒屋も失せるのかしら。北角在住のK氏とタクシー相乗りで港島へ。葵興からで海底隧道料込みでHK$160で意外とそんなもの、なのね。東京なら1600円って溜池から新宿くらゐ?
▼SCMPが一面で Gay partners given 'relationship visa' と報じるのは香港で同性愛の伴侶にそろ/\っとビザ発給してる、さうで奥床しい。具体的には同性伴侶にも扶養家族扱いで居住権与へる法的根拠はないが(同性婚を認めてゐるでなし)狙ひは何といつてもgayxecutive(専業同志)の取り込みなんでせうね。英語では“gayxecutive”、中国語で「専業同志」といふ言ひ方(SCMPではGay Professionalsといふ言葉使つてゐたが)同性愛の専業人士といふ意味で思ひついたが、ふとgoogleで調べたら、これらの言葉まだ「後庭に菊花も咲かず」で誰も使つてをらず。これはいたヾき。ところで関連記事で興味深いのは英国人と香港人同性カップルが越南では英国で認められてゐる同性婚が出来たのは越南が外国人に対して国籍のある国の民法上の権利を認めてゐるからださうで同性婚認めてをらぬ地元の越南人では無理だが英国人が英国の法律に則りで婚姻は可。この二人が香港に移住した際に香港ではこの二人は既婚とは認められず。なるほど。
▼前立法会議長の笵徐麗泰(Rita Fun)女史が実質的に次期行政長官選挙への出馬表明。健康に不安あり、と固辞してきたが北京中央の支持が得られたのか対抗馬たる男どもが頼りなさ過ぎるのか。1983年に38歳で当時、ヨード総督の抜擢で委任制の立法局議員となり89年から行政局議員も兼任。但しパッテン総督との不仲?で92年に議員辞職し翌93年に中共の香港特區準備委員会等の役職につき「英方から中方に寝返り」といはれたが97年返還で中方の臨時立法会議員に当選し、その後、更に強力な?親中派土共の出没で相対的に理性派として評価高まり立法会議長。その後、健康上の理由等で立法会議員辞職したが現在は香港選出で全人代常委。寧波人で上海生まれ、父(徐大統)は上海の製紙業界の大物。中共の覚へ宜しく梁長毛國雄君らとも通じるところあり。市民の信望の高さと敵の少なさでは利あり。アタシがまだ夜遊びしてゐた90年ころ、夜遊びのあと早朝に湾仔の の早茶に行くと一人で飲茶してゐる気さくな四十半ばのオバサンで、当時、行政局議員だと思へばほんと庶民的。
江沢民の死亡説が流れるなか1997年2月20日に歴史的な鄧小平逝去スクープした当時の傳訊電視(CTN)で報道キャップだつた陳慶源(現在、中文大学のジャーナリズム科の兼任講師)の回顧談を読む(明報)。CTNの創業者、于品海がこの前日夜遅くに或る中共元老の家人から電話で鄧小平死去の報を受け幾つかの関係筋に確証のうえ深夜0時18分に鄧小平死去を発表。その二時間半後に新華社が正式に鄧小平逝去を発表してゐるが新華社の発表も早かつたのはCTNの掴んだ情報が確実で晩9時頃とまで発表。実際には21:08でこれは深夜2時過ぎに香港の無線電視の記者が発表。それに比べ今回の江沢民逝去の報道は具体的な情報経路が(公表されぬにせよ)不明で何より裏が取れてをらぬことの危うさ。台湾の記者、梁冬は当時の北京での鄧小平めぐる取材で鄧小平の住居のあつた中南海や拠点病院などで守衛、自動車と室内灯の三つが外からの観測のポイントだつた、と回顧。鄧小平逝去のその晩、遅くに鄧小平寓所で普段の暗闇に明かりが灯り公安が付近の道路に整列、そのなかをリムジンのナンバーからし江沢民と思われる自動車が邸内に入つたことを確認。それ以上そこで取材出来ぬので人民解放軍の三〇一医院へ。政府要人の逝去は政治的であり、この病院だけが死亡確認と証明できることになつてゐるが晩遅くにこの病院が厳戒態勢に入り、そこから中央電視台に往くと此処も室内の照明が明るく中共幹部の乗る黒塗りのAudiが局内に滑り込んでいくことから重要発表の検討と確信。そこまで確証が取れてゐたときにCTNのスクープが流れた由。確かにかうした状況証拠に比べると今回の江沢民の場合はさうしたものが皆無のやう。