富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月卅一日(火)晴。早晩に湾仔。六国酒店の粤軒。帛琉A氏送別宴あり末席を汚す。上客優待がさり気なく10%から5%に引き下げもご時世か。銅鑼湾に往きバーSにハイボール一飲。お借りしてゐた「洋酒うんちく百科」返却。サントリーの角がもう香港では入手に能わず、と聞く。日本でのハイボール人気での角の好調か震災の影響ありか、いずれにせよサントリーが角の輸出制限の由。角とウヰルキンソンソーダがやけに貴重に思へる。
▼公立学校卒業式で「君が代」斉唱に規律命じる職務命令は合憲、と最高裁判が初の判断。一言でいへば「妥当」とアタシは思ふ。そも/\公立学校である。国民教育を目的として出来たのが公立学校であり公務員としての教師は法令や職務命令に従わなければならない。だが、それは例えばフランスとか(現実はかなり問題もあらうが)米国とか国家の理念(国民主権、民主主義、個人の尊厳)といつたものに普遍性があることが前提。近代市民革命も経てをらぬため憲法の謳ふ人類普遍の原理にもピンとこぬまヽ国旗国歌で陳腐で偏狭なナショナリズム煽る=その目標とするところが陳腐な「自主」憲法制定=改憲といふ国だから問題がある。そこで、この定時制都立高の元教諭は君が代や日の丸の強制を在日の学生たちがどう感じるのか、といつた良心の呵責があり、(日常的な組合などの政治活動でなく)自分の定年を前にした卒業式でのたつた一度の「憲法に認められた範囲の、静かな抵抗だと思って起立しなかったが……」(申谷先生の弁)なのだらう。申谷先生の「日の丸を愛することが国を愛することだという短絡的な思考は日本の文化を滅ぼす。私は(起立斉唱を求めてきた)石原都知事よりもこの国を愛していると自負している」は先生の本懐だらうし大阪の国家起立斉唱の条例化は「教育は票になるという思いがあるのかもしれないが、政治家による教育への安易な介入は厳に慎むべきだ」といふ申谷先生の指摘は正論。最高裁判決もぎり/\のところで公立学校の「卒業式などの式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て慣例上の儀礼的な所作としての性質」で、あくまで「地方公務員の地位の性質や職務の公共性を踏まえたうえで、生徒らへの配慮も含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに、式典の円滑な進行を図るもの」といふ条件に限定こそしてゐるが、当然のやうに東京ファシス都や大茶化府は最高裁判決を錦の御旗により一層、管理教育一元化だらう。読売新聞なんて橋下の「府教委が指導を続けても、まだ職務命令に違反する教員がいる」といふ言を受け「そうした状況では、条例制定の動きが出てくることもやむを得まい」(本日の社説)とまで指摘。
須藤裁判官(弁護士出身) 職務命令違反を理由とする不利益処分は、必要性・合理性を欠いていれば裁量の範囲を逸脱するとして違法となり得る。強制が教育現場に無用な混乱を生じさせ、教育現場の活力を萎縮させれば、教育の生命が失われかねない。強制や不利益処分は可能な限り、謙抑的であるべきだ。

千葉裁判官(裁判官出身) 司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが、必ずしもこの問題を社会的にも最終的な解決に導くことになるとはいえない。国旗・国歌に対する姿勢は、個々人の思想信条に関連する微妙な問題で、国民が心から敬愛するものであってこそ、本来の意義に沿う。最終解決としては、国旗・国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要だ。
なーんて補足意見での一抹の良心なんて石原や橋下には「知事の耳に念仏」「知事東風」だらう。それにしても、この判決と見方で最も呆れたのは竹内行夫裁判官(元外務事務次官)の
国際社会では他国の国旗・国歌への敬意の表明は国際マナーだ。国際常識を身につけるためにも、まず自分の国の国旗・国歌に対する敬意が必要で、学校教育で配慮されるのは当然だ。
といふ見方であり、これを追従するやうな読売新聞の
自国、他国の国旗・国歌に敬意を表すのは国際的な常識、マナーである。そのことを自然な形で子供たちに教える教育現場にしなければならない。(本日社説)
であり、産経新聞
国旗、国歌に敬意を払う国際的な礼儀を守らず、「憲法違反」だと言いつのる教師こそ問題なのである。(翌日=朔日の社説)
といつた指摘。国旗国歌への敬意の本論を避け陳腐にも「国際社会では他国の国旗国歌への敬意はマナー」だから「先ず自国の国旗国歌に敬意を」は論理も滅茶苦茶。しかも「国際常識を身につけるために」っていかにも日本的といふか、貴様、愛国の精神はけっして国際的常識のためにあるんぢゃないっ!と右翼のアタシは怒りますよ。それにしても昨日の竹内意見では「他国の国旗国歌への敬意」が今日の読売社説では「自国と他国の国旗国歌に敬意」になり翌日の産経社説では自国、他国と言はず「国旗国歌に敬意を払う国際的な礼儀」となり申谷先生は非国民的教師から非国際的教師!(笑)にまで祭り上げられてゐる。この連携プレー、なんてこった。まさに何か一つの解釈が「この程度」から大事にに至る修辞の怖さ。