富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2010-08-17

八月十七日(火)早晩にジム。一応、運動を終へ露天酒吧で麦酒を一杯。雨が少し降り始めたが自宅に戻ると一ッ時の大雨。雨止んで夕焼け。夏の終はりに肉の冷菜を肴にChateauneuf du PapeのClos du Mont Olivet(07年)飲む。Simon Rattle卿の指揮でバーミンガム交響楽団の演奏するストラヴィンスキーの「春の祭典」とペトルーシュカを聴く。
大江健三郎の例へば朝日に連載する「定義集」がアタシにはその日本語が「まどろっこしい」ので讀んでゐられない。だが同じ人が紐育時報(網版は八月五日)に書いた“Hiroshima and the Art of Outrage”(こちら)は簡潔明解で讀み易い。村上春樹は日本語だと寡黙で英語だと多弁になる。言語によつて表現が変はることは誰にとつても珍しいことではないの鴨。ところでそのなかにある
Of all the official events that have been created during the past 200 years of modernization, the peace ceremony has the greatest degree of moral seriousness.
といふ表現を大江氏本人は今日の朝日(定義集)のなかで
二百年の近代化をつうじて、日本人が自己のものとした最も道義的な真面目さの公式行事、祭祀。
と日本語にしてゐる(あるいはこの日本語を英譯したのだらう)。<祭祀>を“the peace ceremony”にするには無理があらうし、日本人は公式行事としての祭祀を道義的真面目さにをいて自己のものにしてゐる、なんて言へるのかしら。やっぱりこの作家の表現はまどろっこしくてアタシには不明朗。
▼数日前の朝日に靳飛という中国の作家が能楽師観世流シテ方)の関根祥人氏急逝を追悼する一文あり(田村宏嗣譯)。靳飛氏は大和屋の「牡丹亭」のプロデューサー。上海万博で大和屋の「楊貴妃」があり、父(祥六氏)の静御前、息子(祥丸)の義経で、祥人氏は知盛を演じ、その十日後の急逝だつた由。古典劇評論の村上湛君が先日、ある能役者への追悼を書かれてゐたのを、この関根祥人のものだつたのか、とふと思つて村上君本人に確かめると、それ。追悼を個人的に讀ませていたヾく。偶然だが今日の信報に十一月に香港公演ある大和屋の「牡丹亭」について、その靳飛氏が崑劇に詳しい鄭培凱氏(城大中國文化中心主任で白先勇の知己)と玉三郎の京劇について語つてゐる。
「如果用崑劇標準看,不暗崑語的坂東單是念白已經不合格了,但若以文化和藝術角度去欣賞, 你會對坂東的演出驚嘆『了不起』!」
「他(坂東)抓到關鍵切入點,成功與古人溝通,捉住這深閨小姐內心世界的情感波瀾,最精彩是他把歌舞伎女性媚態放在崑劇之中,透過唱、念、做、表展現觀眾面前。」
と大和屋の牡丹亭を初めて見た鄭氏のコメント。一つ興味深いのは
「舞台上の坂東(玉三郎)、挙手投足自然流暢、並未譲観衆察覚他的腿有毛病*1。」
といふ批評。これは実際に舞台で見てみないと何とも言へない。

ストラヴィンスキー:春の祭典

ストラヴィンスキー:春の祭典

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*1:「毛病」は「けびょう」でなくmaobingは病気といふほど深刻でないが、ちょっと気になる常習的な病癖などを示す。電脳の「バグ」はまさに毛病なり。