富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

twitterは「呟板」で「つぶやいた」と呼ぶ

八月十一日(水)午後、驟雨。陋宅客用洗面所の便座取り替へる。客用の便所といふと聞こへが良いが専ら洗濯干場。湾仔のLockhart Rdに並ぶ内装関係の器材屋に往つたのだが便座など規格があるのだから縦と横、留め具の幅の寸法だけ測つてくれば良い、便座外して持つて来るな、と笑はれる。 早酒にハイボールのあと夕餉で鮭の炊込み飯。食後、何をしてゐたのかしら翌朝に全く記憶がない。
▼昭和史、といふか半藤一利ブーム。戦争での陸軍の誤謬、靖国神社A級戦犯合祀の否定、護憲の立場に立つ保守派といふ、菊池の文藝春秋では逸材中の逸材が半藤さん。だが競合誌であつた中央公論で(同誌の「呟板」twitterからの引用で申し訳ないが)

(昭和20年6月)14日の午前に、昭和天皇貞明皇后に会いに行く。想像するに『本土決戦をするので、軽井沢に疎開いただきたい』と。すると貞明皇后は『こんな日本にして何を言うか』『ここで私は死ぬ』と叱り飛ばした。天皇はその日の午後から倒れる。

と書かれてゐる由。昭和史語る大御所がそ高齢化社会とはいへそれなりに草臥つてしまひ昭和史は半藤天下の如し。だが「想像するに」はいけない。久が原のT君が入江相政日記で確かめると、この日、相政さんも平侍従として行幸啓に供奉。午後一時時半御出門、青山・大宮御所お焼跡へ(五月廿五日、明治宮殿と同日に焼失)。貞明様御案内にて親しく叡覧の由、と。たヾ入江日記によれば、これに先立つ同日午前、陛下は途中で気分が悪くおなりになられたとて御進講中止。幸ひすつかり収まられたので午後の行幸に変更なくも還幸後やはり再び夕刻まで御寝。「ご気分がお悪さうである」との記述で翌日も御静養……といふことは「その日の午後から倒れ」たんぢゃなく、先帝はもと/\昼前からお惡かつた。面白すぎる想像は如何なものか、とT君。それに先立つ昭和十七年秋。大宮さんが翌年御成婚の照宮(先帝第一皇女)御輿入道具を明治宮殿*1にて台覧のさいに大宮さんの御先導勤めたのが相政さん(亡父・為守が皇太后宮大夫だった縁)。立派な御調度並べられた表宮殿・千種の間。すつかりご覧になった大宮さんがツカ/\と濡縁*2にお出になられ中庭越しに正殿を望む千種の間の角に立たれ明治宮殿をつくづくお眺めになつて「惜しいものだ」との意味のことを一言、仰せ。相政曰く「まだちっとも敗けていない十七年の秋に、貞明さまはもうあの戦争の帰趨を見透かしておいでになったわけである」*3。かうした描写ほど活きた貞明皇后の風貌を髣髴させるものもないが神懸つたエキセントリックな性格、秩父宮への偏愛など色々取り沙汰されると同時に、やはり、貞明様のかうした直観と洞察の鋭さ、正しさ、といふものは先帝を含め周囲の人すべてを納得させるものがあつたはず。大宮御所焼失のさい赤坂御用地庭内は火の海。貞明さま御自身その中を防空壕まで御避難になつたほどなら*4一ヶ月経たぬその時点で軽井澤遷啓の御慫慂は当然あるべきもの。たヾその案を易々御承引になるほどヤワな母后ではないことは当の先帝さんがもよく御存じ。また、いやしくも至尊にあらせられる方に対して母后とはいへ「こんな日本にして何を云ふか」などと少なくとも「叱り飛ばした」如き下衆ばつた叱責の形で聡明な大宮さんが仰せではありますまい、と。御意。
日韓併合百年に関する菅首相談話につき信報が「菅直人為歴史問題道歉,有很多日本人反對,擔心會引發賠償問題。」と賠償問題へ発展危惧し「多くの日本人」がこの謝罪に反対、って何を根拠に?

*1:明治21年落成し昭和20年5月25日の空襲で全焼。当時の皇室の中心的施設で明治22年大日本帝国憲法発布式も此処。

*2:用材1枚の厚さ三寸強、大きさ畳よりやや小の欅製

*3:入江著『天皇さまの還暦』吹上御所。この日の記述は抄出の『日記』中にはナシ。

*4:前掲『還暦』