富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月廿八日(水)多忙にて帰宅したら三更近く。早晩に銅鑼湾の何洪記で雲呑麺食したが雲呑麺もHK$28なら銀絲細麺ってつまりは「かけそば」でHK$26とはさすが強気。
▼劉健威兄が信報の連載でドキュメンタリー映画「音楽人生」(KJ)の主人公KJ(黄家正)について再び書かれてゐる。アタシの記憶ではこの映画が話題になつた頃に健威兄が映画に映るKJ君のあまりの自豪ぶりにこの若き天才の才能は大人になるなかで潰されてしまふのでは?と心配されてゐた。それが数日前にKJ君の母校・拔萃書院でこの映画上映ありKJ君も母校訪れ健威兄も放映後の座談会に招かれた由。そこでKJ君によれば本人この映画を見てをらず。理由は「自分が対峙してゐるのは過去を振り返るよりこれからの人生。映画のなかにゐるのはイメージの世界、自分は自分であり映画の中の彼は彼、それに相関性もなければ他人がイメージした造影のなかにゐたくない」と。また拔萃書院が(エリート校であるばかりか)音楽王国のやうに言はれるが自分には直接関係もない、と指摘。また最近訪れたネパールで感じたことは「彼の地で誰も人を「藐」(軽視)せぬこと」だつたといふ。同級生ばかりか映画を見た人は映画が現実とは違ふとは思つてゐても映画中でのKJの発言に驚くだらう。音楽の教師を除けば自分がほとんど全ての人を蔑み、自信過剰でなんて奴なのだ、と。香港は(自分も含め)誰彼を軽視ばかりしてゐるやうだ。健威兄は映画で見た登場人物からもう一人の別な人格になつてゐたKJ君を「被告から裁判官になつた」と褒めるのも然り。
▼大阪の母子殺人事件を最高裁が死刑を破棄、差し戻しにつき武蔵野のD君よりメールあり。藤田裁判官の補足意見
1、2審判決は、被告が事件当日に立ち寄った場所について一つも確定的なことを述べていないことなど、一つ一つの間接的な事実を総合評価すれば有罪が立証されるとする。しかし、一般に、一定の事実を想定すれば様々なことが矛盾なく説明できるという理由のみで、その事実が存在したと断定することは極めて危険だ。「仮説」を「真実」というためには、それ以外の説明はできないことが明らかにされなければならず、刑事裁判でも、この基本的枠組みは十分に尊重されなければならない。
と極めて真っ当。それに対して堀籠幸男裁判官の反対意見は
裁判員裁判は国民の健全な良識を刑事裁判に反映させようとするものだから、裁判官がこれまで形成した事実認定の手法を裁判員がそのまま受け入れるよう求めることは避けなければならない。「被告が犯人でないとすれば合理的に説明することができない事実関係」という概念を用いることは、裁判員裁判が実施された現時点では相当ではない。
と意味不明。更にこれを読売の解説記事では
最高裁は判決で、状況証拠によ事実認定について、「被告が犯人でなければ説明がつかないような事実がないなら、有罪にすることは出来ない」との基準を示した。これは堀籠幸男裁判官が反対意見で述べたように、被告が犯人であることを示す決定的な状況証拠がなければ有罪にはできないという意味にも受け取れる。
と「非常にわかりやすい翻訳」だがですがD君の指摘する通り「被告が犯人であることを示す決定的な状況証拠がなければ有罪にはできない」って「疑わしきは罰せず」で裁判とはさういふもの。つまり堀籠裁判官は「裁判員裁判になった以上、『疑わしい』被告を無罪にしたら、みんな納得しないだろ!」といふことかしら。ってことなのか。藤田判事が「最後でいい仕事をした」とこの反対意見や読売の解説を読みます/\さう思ふ。裁判に「市民感覚」は必ずしも必要ではないが「学者としての冷静な判断」は絶対に必要とD君。御意。

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