富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-05-23

五月廿三日(土)終日、甚雨。昼過ぎまでジムでランニングと筋力運動。午後、陋宅にてブルックナーの7番、8番聴く。Z嬢と夕方、油麻地。Cinematiqueで陸川監督の『南京!南京!』観る。陸川監督は数年前の香港映画祭で『可可西里』観て以来。これを観ようと思つたのも辛辣な評論の陶傑さんが題名をなぜ一言『南京』とせず『南京!南京!』なのか、魯迅の名句「院子裏有兩株樹,一株是棗樹,另一株也是棗樹」をなぜ「兩株都是棗樹」と済ませないのか、と非難せぬ文人趣味に大陸の映画人は陥つてゐるか、と指摘した以外はこの映画を「正戯」と讃めたゆゑ。日本軍が南京占領後「公式には」国民党の残党兵のみ報復戦恐れ虐殺し(実際にはこれも国際法上赦されぬのだが)それを除く平民は処刑対象となつてをらぬ点、慰安婦も原則は強姦に非ず金銭による買春であり日本と朝鮮の婦女も慰安婦とされたこと、の二点を挙げ、中国のこのての作品だと必ずエンディングロールで「日寇南京屠我軍民人數:300,000,血海深仇,我們世代不能忘記」といつたメッセージが出る作風とせず南京を淡々と描いた点を評価。実際に観てみると映画では平民も日本軍兵士のその場の「臨機応変」でいとも容易く銃殺がいくつもあり、慰安婦もいくら商取引とはいへ避難民区保護を名目に婦女の慰安婦としての拠出求め、エンディングロールには確かに「日寇南京屠我軍民人數:300,000……」はないが映画は冒頭で「南京で命を落とした三十萬の同胞に捧ぐ」から始まる。中国でのこの映画の公開で陸川監督に対する多くの非難は日本軍の中の一人、良心の呵責に悶える憲兵隊長・角川の美化。監督は今日のNew York Timesの記事“Showing the Glimmer of Humanity Amid the Atrocities of War”によれば今回の映画製作にあたり当時、中国に進駐の日本軍人の手記や資料をかなり集め侵略する側の軍人たちの、実は一般的な当時の日本の若者が、夫であり、それが一旦、戦場に送られると非道な軍人と化す異常さを描きたかつた、と語る。また陶傑氏も何度か指摘してゐるが日本軍の南京虐殺の蛮行の発端となつたのは国民党政府が易々と南京を放棄し主要軍隊も南京離れ市民ばかり城内に遺し南京に残留の小規模の国民党軍(この映画では劉燁が隊長)が日本軍相手に戦ひ降参しての日本軍のほゞ無血入城ゆゑ(それで日本軍の蛮行は一切赦免されぬが)。この映画はまずその南京政府と自国軍の過失、怯懦を描いたことも中国の愛国的な攘夷派、殊にネット系には「日本を美化」と映るだらう。個人的にアタシも良く出来た映画、と思ふ。たゞ二時間余の物語で唯一「なんぢゃこりゃ?」は南京陥落奉祝の祝日に日本軍の兵隊が崩壊の市街を鬼太鼓座のような大太鼓を神輿に担ぎ阿波踊りでも模したか、かなり前衛な踊り行列のお練り。南京で日本軍が奉祝はしただらう、があんな鬼太鼓座太鼓と晩期の黒澤明監督の演出のような見事な?踊りはなからう。この場面は映画をぶち壊し。しかし陶傑氏はこれを連載で二日にわたり絶賛。
對屠殺淨化之後,就是對日軍的美化了。日軍入城之後,慶功祭祀的一場大鼓戲,是導演陸川先生全片最精采的畫龍點睛之作:鏡頭多樣,節奏活溌,把日本武士的陽剛之美,刻劃得有如希臘雕塑之神聖。這一場戲,很明顯,是向納粹徳國紀錄片女導演莱芬斯坦致敬。(五月十九日)
還有結局的一場大鼓祭祀戲。這場戲拍得像三十年代納粹女導演莱芬斯坦的《意志的勝利》。一樣的黒白鏡頭,一樣用陽光重塑武士陽剛的形象,打大鼓的日軍,就像一九三六年柏林世運會出場的徳國代表隊,這場戲,讓日本的上一代看了,一定感動,還會訓斥下一代的日本青少年:看,人家中國人把我們的大和魂展現出來了,照照鏡子,看看你們今日這等萎頓不振的面貌,羞不羞? 這場祭祀戲,是全片的戲眼所在。導演當然知道憤青斷章取義的心理,愛國精神,在前面交足了行貨─劉燁飾演的國軍軍官,從容赴死,帶頭喊「中國萬歲」─以當時的現實,更有可能是喊「中華民國萬歲」的─這就突出了正氣,封住了許多人的嘴。(五月二十日)
……と、確かにナチスの『オリンピア』的なモノトーンの世界の健全美は見受けられる。が日本人が見て「なんぢゃこりゃ?」ぢゃ、残虐な殺戮場面によつて、でなく、この陳腐な場面一つで「日本での上映」でミソがつく。日本軍の鬼子と恐れられた残酷な兵隊の戦地の些かな休暇で見せる無邪気さや愛嬌を陸川監督がこの映画で描いてみせたことは「勇気」だらう。がこの陳腐な場面こそ「日本軍を美化」と非難されても致し方あるまひ。カットすべき。折しも上海では偶然にも本日、日本人留学生らが企画し日本人向け上映会開催され陸川監督も来場し意見交換の由。ちなみに日本の某新聞は昨晩は間違ひなく台北にゐた特派員が今晩、上海からこれを取材して出稿。今日、上海に戻つて午後3時から上映後の午後5時半くらいの談義を取材したしたら激務ご苦労様だけど……。陸川監督曰く
私がこの映画を撮ったのは、中国と日本の戦争として南京大虐殺を取り上げるのではなく、1人の日本人兵士(角川)を通じ、人類の戦争に対する反省を描こうと思ったからです。戦争にかかわった大多数の日本人は本来、善良な人々だったはずです。ただ、戦場の中で、理性を失い、自分をコントロールできず、望まないことを起こしてしまった。戦争から逃れる方法は二つだけ。一つは自ら命を絶つか、戦争に屈服し戦争のための機械となるか。1人の日本人兵士(角川)が葛藤し、自滅の道を選んだのは、善良な人が戦争の中で遭遇した最大の悲哀です。私は、中国人だけでなく、日本人にもこの映画を見て欲しいと思っています。この映画によって日本人が中国人を理解し、両国民の相互理解につながる一つの架け橋になればと願っています。みなの友情を深めるための映画になるよう望んでいます。
と。優しい方……このコメントの最後の方は皇族のお言葉みたいな訳になつてゐるが。でも「善良な人が戦場の中で、理性を失い、自分をコントロールできず、望まないことを起こしてしまった」で赦されてよいか。自殺か服従か、と監督はいふがさうかしら。貧困な家庭から食い扶持得ようと軍人になつた無智(善良、は誉め過ぎ)な一兵卒ならまだしも、この映画の角川のやうな軍人なら自殺か服従にかぎらず、加藤周一先生ら多くの知識人ですら出来なかつたことだが母国の天皇担いだ異常な権力集団に対するレジスタンスもあつたはず。いづれにせよ陸川監督の視点もさうだが人民日報のこの映画紹介なども興味深いところ。映画見終わって大雨のなか中環。市大会堂。法國五月(Le Trench May)でMichael Dalbertoのピアノリサイタル。ふと気づいたが日本語の漢字表記でフランスを仏(仏蘭西)と書くが耶蘇の国に仏様はあるまひ。断然、漢語の「法」蘭西の方が近代法治と民主主義の謂はば発祥の地、フランスには似合ふ。樋口陽一先生も納得してくれるだらう。『南京!南京!』のアトにピアノはだうよ?と思つたが結果的に素晴らしいピアノ独奏。フォーレの「主題と変奏」嬰ハ短調・作品73と夜想曲変ニ長調 作品63)。フォーレはふだんほとんど聴かないが美しく崇高。あと十年くらゐすると楽しめるかしら。続いてラヴェルの「夜のガスパール」は今晩の演奏の白眉。「オンディーヌ」の不安から2曲目の「絞首台」は数時間前の映画のシーンがいくつもあたまを過る。「スカルボ」は圧巻。Michael Dalbertoなるピアニスト、全く知らず、だが「フランスにはこんな名演奏家が何人かいるのね」の世界。この難曲を見事に、そして高い完成度で聴かせてくれてしまつた。たゞたゞ敬服。中入後はドビュッシー前奏曲集第2巻。第1巻に比べ退屈で睡魔に襲われると覚悟してゐたが、物語が見えてしまひ、ことに後半の水の精 (...ondine)から花火(...feux d'artifice)秀逸。アンコールはショパンの「舟歌」とバラード1番。シューマントロイメライ。雨は歇まず。
朝日新聞の「声」欄に「閉口する電話窓口の音声案内」という投稿あり。テープ音声対応への苦情。最後に
先日「英語でのご案内希望の方は2番を押してください」という音声が日本語で流れたのを聞いた。その必要性に首をかしげる私である。
とあつた。一瞬「日本らしい。さもありなむ」と嗤つたが、これが香港のやうに音声の最初に「広東語は1、普通話は2、英語は3」と、それが全ての言語で流れ先ず其処で言語選択が出来るなら、広東語での説明が始まったあとに「英語を希望の方は3を」と広東語で言はれゝが然も滑稽。だが最初から日本語での説明しかない、日本語を解さぬ者には絶対的絶望の世界にあっては「英語」「2」と、それだけでも聞き取れゝば御の字、で「ないよりマシ」だらう。むしろ音声案内の最初に“For English, please press 2”と伝へる親切の欠如こそ嘆かれるべき。この投稿主も、この日本語での「英語での……」の案内が「ないよりマシ」で必要な事に気づいてゐないかしら。
▼SCMP紙のLai See欄で香港金融管理局の任総につきグリーンスパン議長にこそ(厚遇で)勝つたがノーベル経済学賞のポール=クラグマン教授には負けた、と冷かすは倶楽部萬教授がジョセフ=ヤム(任総)が経済危機の最中に解決策も見ぬまゝ辞任することに意見求められクラグマン教授曰く「とくに意見はないが自分の学生でヤム氏への批判的なレポート書いて出した学生にはAの評価をした記憶がある」と(笑)。
交流戦で巨人に大敗の楽天・野村監督、他球団から補強した選手が多い巨人に毒づき「巨人シーフ(泥棒)にはかないかせん。金の力でねじ伏せられるのは腹が立つ」。御意。
朝日新聞の文化面に神里達博氏(東大・科学史)が「マスク着用と世間の目」寄稿。日本の新型インフルエンザ対応についての社会的混乱=他の国に見られぬ社会的恐怖感につき安倍謹也の「世間」の概念を挙げ、もし感染し感染広めたら、といふ社会的責任や世間の目があるもの、として怖いのは、
一見、粛々と進められている我が国のインフルエンザ対策だが、何か条件が変った時、我々の集合的な感情が思わぬ方向に向かい、知らないうちに不合理へと逸脱していく懸念も、ゼロではない。従って我々は、自らの心や共同体の集合的な意識を、時折もう一つのさめた目で見つめ直すことが重要だろう。メディアで繰り返し語られる「冷静な対応」とは、本来、そういうことを指すのではないだろうか。
……と指摘する。言われていることは間違いない、がはつきり言つて「集合的な感情が思わぬ方向に向かい、知らないうちに不合理へと逸脱していく懸念」は「ゼロではない」どころか「かなり大きい」のであり「自らの心や共同体の集合的な意識を、時折もう一つのさめた目で見つめ直すこと」と仰るが、それが出来ていたなら社会がこんなことにはなつてをらぬ。「時折もう一つのさめた目で見つめ直すこと」ぢゃ甘い/\。インフルエンザで感染者出した学園へのバッシング、田園都市線で「うちの子が感染したら責任をとってくれるのか」の不安、サッカー観戦でマスク着用の義務づけ、インフルエンザばかりかワーキングプアも社会の諸問題も同根。こんな社会に誰がした、つて我々なのだが根本的に市民革命も経てをらぬまゝ近代化の後果。今更だうにもなるまひ。ふと東大の科学史村上陽一郎先生なら今回の新型インフルエンザでの社会の安全不安についてだうコメントされているかしら、と興味深く思ふ。

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