富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

陰暦四月廿六日。小満。東都は麹町の一元屋の金鍔いたゞき明前の龍井茶と一緒に。至福。晩に湾仔の益新美食館。M女史ら七名で飯局。食前に伊のPlanetaの07年のシャルドネ。NZのDog PointのSau Blの08年、赤は仏はSeguretのMourchonでグランレゼルヴの06年と益新の料理には似合ふChateauneuf de Papeの03年。K経理が料理の出すタイミングまで見事に酒の進み具合に合はせてくれてありがたいかぎり。不景気な御時世ながら楽しく物語り尽きず皇后大道西のバーHに空眺めつゝ飲む。23時過ぎにはご帰宅。
▼先日は故・趙紫陽氏の口述筆記本出版があつたが内容は「あっと驚く」暴露もなく、だが「出版の事実」だけでも何らかの衝撃はあらう。今日の蘋果日報の六四の廿周年特集では黄雀行動(イエローバード作戦)について。六四のあと民主化運動の主要ポストにあつた学生らの海外逃亡支援のこの計画。香港などの資産家が資金援助し海外の諜報機関、中国国内でも党や軍の幹部級の者から蛇頭など不法出国仲介屋、暴力団、香港では有名芸能人までが関はり厳家其、王丹やウアルカイシ、柴玲など学者や学生運動指導者の出国を介護。だが(ベタな表現で言へば)その実体は謎に包まれ関係者は今日まで具体的な関与や幇助の実際には口を噤んだまゝ、と。だが凡そ「この人だらう」といふ中核の人物は今更驚かぬが今日の蘋果の特集でも名前も挙がり、逃亡介護者の具体的な人数やルート書かれた手帳も公開あり。当時、中央戯劇学院の学生で民主化運動に参加の王龍蒙(在台湾)の話によれば北京を脱出し深圳へと向つたが深圳手前の東莞で列車内で武警の尋問受け「これまで」と覚悟。そこに現れたもう一人の武警が王龍蒙の素性を察し同情したか「自分の同僚だ」と嘘の紹介をして危機一髪で難を逃れ(って勧進帳か)、列車は深圳についたが国境の警備は厳しく、だが同じく逃亡中の国務院経済体制改革研究所の張剛が王龍蒙をば探し出し、台湾の民主化支援団体が企画し香港から深圳入りしていた「旅行団」に救われ偽名で加わり、海外逃亡どころか深圳から南京、鄭州杭州と国内旅行、で福建から雇ひし漁船で台湾へ渡つた、と。また台湾といへば馬英九総統は1989年当時、国民党政府の行政院研究発展考核委員会の主委と大陸工作會報(現在の行政院大陸委員会)執行秘書務めており黄雀行動への関与こそ否定しているが馬英九本人も自らのUS$10,000(当時の英九氏の給与三ヶ月分)義捐は認めているもの。
▼丁度20年前の1989年5月21日、香港の『文匯報』に社説はたゞ四文字「痛心疾首」と出る。親中系といふか実質的に中共の新聞に香港とはいへ天安門広場での民主化運動弾圧への良心の呵責でかう書かれた事への驚き。これにつき今日の信報に先頃北京での拘束から釈放されたジャーナリスト・程翔氏が回顧談あり。北京が戒厳令敷いた翌日のこの日、文匯報の社説が「痛心疾首」と嘆き百万人の市民が抗議デモ。以下、程氏の回憶によれば、文匯報の社説は全て新華社(現・中聯辧)の審査経るもので1989年のあの日の社説も例外なし。香港文匯報の社長・李子誦と董事・金堯如は「夫復何言」と「痛心疾首」の2つ用意し新華社訪れる。新華社(香港)の副社長・張浚生は「こちらの四文字の方が更に人々の気持ちを反映してゐるだらう」と「痛心疾首」を選んだ由。この話は当時の新華社(香港)の社長・許家屯の回顧録にもあり、許氏によれば文匯報の関係者の多くは「夫復何言」(そも/\もはや何を言はむ哉)の掲載を主張したが許家屯も張浚生の選んだ「痛心疾首」(心を痛め首(こうべ)を疾む)に同意したさうな。六四事件のあと李子誦、金堯如の二人を初め十数名の記者が文匯報を辞し李子誦の主宰で雑誌『當代』発刊となる。

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