富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-12-08

十二月八日(月)咳がまだ歇まづ。つらいが休んではおれぬ忙しさ。週末はメールの返事も怠つてゐるので月曜日は返信など雑事済まるだけで昼になつちまふ。早晩に湾仔の泉記で紫菜四寶河粉頬張り二更まで仕事。今日から一ヶ月は鳥渡緊張してをらねばならぬ状況にあり。
▼陳凱歌監督の映画『梅蘭芳』(主演:黎明)の公開控へ六日の蘋果日報に章詒和氏の「戲子生涯君子人格」と題する長文の梅蘭芳論掲載あり。興味深く読む。梅蘭芳(1894〜1961)について今更何を語ることがあらうか、といふほど京劇を知らぬ者にも梅蘭芳は著名だが江蘇泰州人で本名瀾、又名鶴鳴、小名裙子、群子、號畹華、別署綴玉軒……と章詒和の紹介するこの梅蘭芳の名前を読むだけで好事家の琴線に触れるところありやなしや。で筆者は梅蘭芳の出自から説くのだが、その出自について様々な説があるが中国戯曲の歴史や当時の清末の社会状況を知らぬと誤解するところあり、と。清末には商人や文人、官僚といつた中上層階級にとつての娯楽といへば「戲園子」と「堂子」。嘉慶から光緒まで約百年盛んであつた堂子とは「下處」とも云はれ、子どもらを集め芸を修業させ売りに出す宿舎学校(注)に置かれた若衆らのこと。
以下、章詒和の文章が艶つぽいのでそのまま引用。
逛堂子叫打茶圍,從事打茶圍行業的伶人叫相公。相公從事的是「以歌侑酒」「以曲伺人」的服務。所以他們又叫歌郎。「打茶圍」是歌舞表演的配套服務,伶人演完戲,也在這服務,額外掙一份錢。臺上看戲,臺下看人,男人們就樂此不疲了。由於歌郎是陪酒,陪聊,陪笑,也就善歌,善酒,善談。他們特別能體味男人的心理,迎合男人愛好,多有女性化傾向。歌郎必須習藝,有色,有藝,還有一副好性情,包括談吐,走路,笑容,眼神等等。既學會應付顧客不同的需求,還要不忘保護自己,這一套本事真可謂嚴酷。由於堂子業必須要有好歌郎,所以,很多是由名伶兼營。
……と。ようするに日本の若衆歌舞伎のやうに陰間的なもの(筆者は厳密に筆者は「堂子」と「妓院」を同一視することを諌めるが)。それにしても「以歌侑酒」「以曲伺人」だの「臺上看戲,臺下看人」などといふ漢語は何とも面白いが。といふやうな時代が段々と舞台の演劇の技量を重視する時代となり「堂子」と呼ばれた若衆は、まさに<近代>に陰間が廃れる中で京劇の女形の役者に成長してゆく。雲和堂で就業し「梅郎」と呼ばれた梅蘭芳はその筆頭格で成功してゆくのだが、梅蘭芳にとつて幼い頃からの堂子としての半生はその後の梅蘭芳の略歴からは削除される。筆者の著述の中でもう一つ興味深いのが「梅党」について。梅蘭芳ともなれば各界のご贔屓衆がづらりと並ぶ。ご贔屓衆といつても当時の彼らはその教養、智慧でもつて京劇にも殊更造詣深く梅蘭芳を一大女形に成長させようと心血注ぐ。「霸王別姫」は梅蘭芳の代表的な演目だが、これも梅党の中でも梅蘭芳に入れ込んだ中国銀行の南京総行の総経理までした銀行家が「楚漢爭」なる原題の演目を梅蘭芳のため齊如山に書き直させたもので、その初稿を更に吳震修が改修して霸王別姫の脚本を完成させたもの。梅党の筆頭の人物といへば馮耿光。通称、馮六爺。日本の陸軍士官学校を卒業した軍人で経済にも明るく中国銀行董事長。梅蘭芳が14歳の頃からパトロンとして生活の面倒をみる。梅蘭芳の17歳での初婚から全て馮六爺の仕込み。梅蘭芳といふ不世出の女形も「役者バカ」で芝居以外何も知らぬ、出来ぬ少年を馮六爺が徹底して面倒を見て育て上げた、といふ話。……以下、梅蘭芳の三度の婚姻のこと、更に<中華民国>といふ時代、近代にとつての梅蘭芳論が続くのだが茲に書ききれず。
(注)映画『霸王別姫』の冒頭で京劇の子役らが寝食を伴にして芸を仕込まれる演芸学校を思ひ浮かべればよい鴨

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/
富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/