富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-07-27

七月廿七日(日)気温は朝で摂氏廿九度。昼は卅四度まで上昇といふが昨日よか日差し微か。山越えで海岸。木陰に涼み思ふところあり小林秀雄「モオツァルト」再読。アタシはどうしたつて道頓堀を歩いてゐて突然、モオツァルトのト短調のシンフォニーのテーマが頭の中で鳴つたりしないが小林秀雄が昭和廿一年の暮、終戦から一年が過ぎてやうやく少しづつ日常生活が始まらうとする頃に、そして戦後がいよいよ動き出さうといふ時にモオツァルトが希望どころか死が決づけられてゐる運命を持つてゐるとするモオツァルト論を世に供したことが今になつて意味深げに思へる。結局のところ、死に象徴される終焉、悲しみは逃げられぬのだから何が出来るかといへば「展開」。このモオツァルト論の中に1777年にパリ滞在中のモオツァルトに連れ添つてゐた母が亡くなり、それを友人(ブルリンガア君)に伝へる手紙が紹介されてゐるが「自分と一緒に泣いて貰ひたい」と始まる悲しみの手紙は、この不幸を父には今すぐに伝へられぬから、とその按排を頼み、普通ならそこで終はる手紙は「さて、他の事をお話しする事にしよう」としてパリでの成功や面白可笑しい話が続く、と云ふ(余は「モーツァルトの手紙」ももう三十年以上も前に読んだきりで内容もほとんど覚えてゐないが)。秀雄は「そこにモオツァルトの音楽に独特な、あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想ひがするであらう」と書いてゐるが、まさにこの無情なやうな態度が意外とヒトの本性であつたりする。残酷なのではなく、さうでもしなければ生きておれぬのかしら。モーツァルトで短いフレーズや一つの楽章くらゐなら良いのだが本当にあの、なんでこーなるの?の転調や展開は「さうでもしなければやつてられない」といふことなのか、と今更ながら感じる。午後になり薄曇りとなり夕方小雨。新橋のウツキカメラの店主である宇津木發生氏の半生記「カメラは時の氏神」(柳沢保正著)を読む。宇津木氏は戦前に国民新聞の写真部に入社、戦時中にこの国民新聞が都新聞と強制的に併合で東京新聞となり戦後、新橋駅前にカメラ店を開く。

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富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/

カメラは時の氏神―新橋カメラ屋の見た昭和写真史

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モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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