富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

au café à Paris, octobre 2

一月十七日(木)曇天。多湿。春の如し。諸事に忙殺され早晩に銅鑼湾時代廣場Citysuperの飯場(フードコート)にて元八ラーメン。晩に濃霧。二更帰宅のさいマンションのクラブハウスの網球場に目をやれば網球する輩の相手すら霧中に霞むほど。
月本裕さんのこと。故人のことを何処まで思ひ出を勝手に書いて(公開して)いいものか、と憚かつた。遺族のお気持ちもあらうしご葬儀も密葬なのか、どこまでこのご不幸を知らされるのか、など。だが新聞には訃報も載り(十八日朝日新聞)ネットで知り合つた月本さんであり、ご本人も精力的にブログ綴られてゐた方ゆゑ、以下、敢へて上網す。以下、一月九日(水)の追記。
畏友、月本裕さんが昨八日の晩に脳出血で倒れ今朝、亡くなられた、と斎藤さんよりメールで訃報せあり。月本さんとはもう何年お会ひしてゐなかつたか、と今になつて悔やんでも悔みきれず。ただ昨年の秋、月本さんよりメールいただきやりとりあり。月本さんのブログより謹んで引用(こちら)。
「鰻の館 東條」、畏友富柏村氏のご推薦だから味と雰囲気は満点なのはわかっていた。しかし良い店だった。 おかみがいたれりつくせりの気の利く方。突き出しは天然鰻の炙り。そして刺身。肝吸い(ピンぼけすまん)。鰻重。大満足ですよ。さっぱりした仕上がり。でも鰻はしっかりと良い味がするもの。ブランド鰻の板東太郎を使っています。 わざわざ足を運ぶべき店。富柏村氏に大感謝ですよ。いっそここに泊まりたいくらい。でも車を呼んでもらって水戸駅へ。 そしてまた足の速いスーパーひたちで上野に帰り、帰宅。日帰りでこの楽しさ、水戸遠征はくせになりそう。水戸ちゃん、 J1へはやく上がっておいで。
と。月本さんとの出会ひは香港競馬。当時フヂヤマと名乗つてゐたDazhaoさんがネット黎明期の97年より営む香港賽馬中心といふサイトあり。時々眺めてことゐたが1999年3月21日に沙田競馬場で簡慧榆騎手(女性)がレース中に落馬し蹄下殉戦。簡騎手の逝去が場内に知らされ最終レース取り消し。帰宅し思はず香港賽馬中心の掲示板に追悼の辞を綴る。ここから今は北京に住まはれ香港まで海南島経由で列車で来られた(なんて経路だ)Dazhao氏らとの今に到る親しきお付き合ひ始まる。月本さんもそのサイトご覧になつてをられ2000年暮れの香港国際レースに取材兼ね来港だつた由、掲示板への書き込みで知る。翌01年春のQE II Cupの前に月本さんより直接メールを頂く。すでに小生もネットで日剰公開してをりご覧になつてゐた月本さんが競馬のこと、歌舞伎、音楽などさまざまなことで共鳴、と。で01年のQE II Cupの前夜、尖沙咀で初めて月本さんご夫妻、Sさんや月本さん、放送作家のMさんら今も仲良くしていただく面々と出会ふ。その年の夏にはお茶の水山の上ホテルでご夫妻と天麩羅を食し銀座の「とりふじ」に案内され飲む。またその年の暮れの香港国際レース。日剰を読み返せば02年の春もQE II Cupで再会。斎藤さんと三人でマンダリンオリエンタルホテルのチナリーバーで夕方からシャンペン。月本さんは雑誌編集の仕事柄年末の国際レース観戦は忙しく来港は春のQE II Cupとなる。翌03年はQE II Cupから始まり発に築地で、といへば築地のH君も交へ「ささ屋」で歓談。著名なフジテレビの元アナOさんご一緒。銀座で場所の移つた「とりふじ」で葡萄酒。十月には小生はZ嬢と巴里に遊び十月の巴里で月本さん夫妻と邂逅。月本さんとの待ち合はせは毎晩、St-German des PresのBonaparteといふカフェで食後はセイヌ街のLa Paletteといふカフェを月本さんは好きだつた。月本さん夫妻と四人でSt-German des Presの食肆で生牡蛎を百個も食し白葡萄酒を多いに飲む。ロンシャン競馬場凱旋門賞はこの年はスミヨンがダラカニに騎乗し優勝。月本さんは当時、巴里のアパルトマンを借りるほど巴里を愛し、見習ひであつた17歳の紅顔のスミヨン騎手をきつと大成するだらう、と期待してゐたので、22歳になつた彼のこの凱旋門賞の勝利に月本さんはとても嬉しさうだつた。「スミヨンの勝利にロンシャン競馬場に虹がかかつた」と携帯で撮影した虹を、晩遅くLa Paletteで見せられた時の月本さんの笑顔。そして03年の年末。有馬記念。私にとつて最初で最後の日本での競馬観戦。お茶の水で待ち合はせ中山競馬場に連れていつてもらひ晩は神楽坂でこの競馬仲間の大宴会に寄せてもらひ「升々」なる居酒屋での二次会。これがお会ひした最後。2003年暮れの有馬記念。まさか4年もお会ひしてゐなかつたとは。月本さんは『ソトコト』の仕事忙しくなられ私も東京に帰りお会ひできるはずが、その頃から先考の具合悪くなり帰邦の折はつとめて実家に戻り東京滞在短く月本さんにお会ひできぬまま。年に数度のメールの交換で、最後が前述の鰻やの紹介。まさに畏友であつたが月本さんに一度お会ひしただけで小生を畏友と呼んでいただけたのがこそばゆい。今だから明かすが(月本さんにはお話してゐたが)月本さんの書かれたものはブルータス誌などで随分と読んでゐたが実は月本さんの名を初めて意識したのは1989年のマガジンハウスの第1回坊つちやん文学賞大賞を月本さんが受賞した時。不肖なる小生も駄作をこれに応募し数あまたの佳作だかの一つに入つたが、その大賞受賞者が月本さん。その名はずつと脳裏に焼き付き、2001年の春、突然、月本さん自身よりメールいただいた時の興奮はまるで昨日の如し。月本さんは歌舞伎も愛されてゐたが久が原のT君と実は面識もあつたことは巴里のLa Paletteで飲みながらの話で判明。畏友村上湛君による中村京蔵の「山月記」も小生の日剰からお知りになり観劇される。築地のH君とも一緒できたこともご縁。人生五十と云ふが五十にも至らぬうちの月本さんのご逝去、ただただご冥福祈るばかり。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/
富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/