富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-11-23

十一月廿三日(金)安部公房の描く<記憶>の世界か、ピンクフロイドの夢か、今日はとても驚く事象あり。デジカメ(リコーのGR Digital)でSDメモリ外したままで撮影してしまひ「写つてをらぬ」と思つたがモニタに映像残る。一瞬「なぜ?」と思つたがカメラ本来にハードメモリあることに今になつて思ひ出す。でモニタには子どもの頃の雑誌付録にあつた絵巻物の紙芝居のやうに隣の画像映るのだが、そこに知らぬ男の顔。そして接写の手首。なぜアタシのカメラに?と一瞬、背筋が寒い。その見知らぬ男だがよくよく見ると背景は電気屋の店頭。どうやら客の試し撮り。このカメラ購入の際に展示品ではなかつたが、どうやらこの客が新品を開けさせ、手にした上で購入断念だつたのかしら。新品のはずが実は手垢がついた品だつたか、この客の接写で手首の背広とシャツがかなり上等な品だ、と見入つてしまつた。早晩に鰂魚涌。北京より来港の海淀車輌工場の工場長O氏と再会。偶然、近くのTaikoo Placeにて香港微型藝術會の「香港本土風情 微型藝術展覧」なる香港の都市風景のミニチュア展示ありO氏をお連れして参観。思はず溜め息、の精巧さ。East Endでエール二杯。O氏、今回は鉄道旅行愉しみ(酔狂にもほどがあるが)北京より海南島の三亜経由で香港に至れる。北京発三亜行きの列車は三十時間の旅。広州でほとんどの客降りてしまひ三亜までの客など少ない。広東省の西南端、徐聞で列車運行止めてよからうところ十八輛編成の列車をわざはざ四分割にしてフェリーに、その船のバランスが傾かぬゑふわざはざ左右二列づつ船体に列車導入し、海南島に渡り海口から三亜まで走るのだ、といふ。毎日この面倒な作業を上下線でしてゐるとは……。北京から三亜までの列車など採算合はぬのは当然。あくまでも首都から地続きで南の果てまで列車が通じてゐることの国家的意義。まさに天涯までをも我が国土、と。O氏とは香港の競馬が縁だが鉄道の話も尽きず。競馬ファンに鉄道や乗り物好きが多い。夕食は炳記飯店。もう何年も一度ここで食さうと思ひつつ一更に通りかかれば外で待つ客も少なからず逸しつつ今晩はO氏と六時半すぎに訪れ流石にまだ閑散。Z嬢来る。夙に名高き三杯鶏。栗子排骨煲など美味秀逸。まだ話したりず、であつたが風邪で体調悪しく九時すぎに帰宅して即、臥床。
▼昨日の朝日新聞(衛星版)のアート欄・美の履歴書34回で紹介されてゐるのが「青花 蓮池魚藻文 壺」。アタシにはまつたくもつて目利きの眼力といふものがないが、或る茶人が有したこの壺、出入りの茶道具商が業者の競りに出したところ出だしの数十倍となる9千万円で落札され、それを後日、さらに倍以上の価格で購入した、その御仁が安宅英一。1973年の話。この壺は後に国の重要文化財に指定された、安宅英一といふ人の目利き。この記事は三井記念美術館で開催中の安宅コレクションに絡むもの。安宅英一は安宅財閥の創始者安宅弥吉の長男。弥吉は高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、日下部商店の香港支店(日森洋行)に赴任。手広く貿易の商売広げ日森洋行の共同経営者になるが日露戦争の頃に日下部商店経営破綻の煽り受け香港支店=日森洋行も閉鎖。で弥吉は安宅商会を創業。英一はその長男だが次男の重雄が安宅商会を継ぎ芸術肌の英一は神戸高商卒業後、安宅商会の倫敦支店長や名誉職的な会長職の傍ら(つてじつは商売のはうが傍ら、で)音楽パトロンやや古陶磁の蒐集家として殊のほか著名。さういふ香港に縁りある人。名家のぼん、といへば細川護熙公。この安宅の壺の記事の下に護熙公が「面に宿る孤高の姿」といふ随筆を寄稿。護熙公、岡本綺堂の『修禅寺物語』から話を起し白州正子との能の鑑賞など語り、
舞台で面をつけるということは、耳も目も全く不自由になることで、催眠術にかかったような状態になるのだそうだ。精神を集中させるために、なるべく外は見えないにかぎる。目でなく胸で見るのだというような話をなるほどと思いながら面白く聞いた。
と能の蘊蓄を語り、最後は自分が彫つて漆を重ねて仕上がつた神楽面の話。その神楽面はさすが技巧は素人離れ、数寄者なる肥後の殿様らしさ。だが能に詳しい久が原のT君に言はせれば「視界が極度に狭められはしても、見える範囲への視野は却つて鋭敏」であり、謡と型さへ十分身体に入つてゐれば、「あそこにゐる観客某がどこからどこまで眠つてゐた」が簡単によくよく見えるほど、だといふ。寧ろ、催眠術に掛かつたやうに思ふのは稽古不足の上がり性の者の言ふことで、むしろ反対に「覚醒する」と。「胸で見る」なんて言葉は「なるほど」と素人を納得させさうだが。あの日本新党の躍進から首相職を放り投げ出して、の辞任も、きつと能面つけて耳も目も不自由になりトランス状態だつたのかしら。ちなみにこの随筆の肩書きは元内閣総理大臣ではなく永青文庫理事長。
▼新聞広告によれば千葉八千代の秀明大学が来春「学校教師学部」開設の由。「めざせ、実力派教師」とあり開設学部のサイトみれば
今、学校現場で求められてゐるのは、単なる『知識の伝達者』としての教員ではなく、「人生の良き先輩」として生徒から信頼され敬愛される「真の教師」です。「優れた教師」を養成するといふ学部の目的を明示するため、日本で初めて「学校教師学部」といふ名称にしました。
とあり。優れた教師とは大学の学部でさう易々と養成できるものぢやない、とアタシは思ふ。べつに教育学部でも法学部でも理学部でもよく、その人の人格であるとか経験、知識などさまざまなものから結果として学生にとつて人生のよき先達としての師があるにすぎず。

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富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/