富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-11-02

十一月二日(金)早晩にジム。トレッドミルで一時間走る。晩に香港藝術中心。この週末「台湾月」と題した台湾映画上映あり(全て無料)。鄭文堂監督の『経過』観る。台北故宮博物館で学芸員をする安静(桂綸?)。その元彼らしき寡黙なアート系ライター(戴立忍)は家賃払ふのも難儀で安静に借金。そこに故宮美術館にふらりと現はれた日本人青年(蔭山征彦)。青年は北宋の蘇軾の『寒食帖』を一目見たいと切望するが展示がない。この三人の数日間の日々を故宮博物館を舞台に描く、一風変はつたドラマ人間模様。安静は元彼にも踏切りがつかず、優しさうな日本人青年もちよいと気になる。が元彼は清貧な生活で黙々と書き物を続け、気分転換は気功。日本人青年も蘇軾の『寒食帖』に興味抱くばかり。面白い設定といへば面白いし、台北のアート指向な雰囲気もよくは出てゐるが、作りすぎ、なのはこの映画ぢたひが国立故宮博物館のプロデュースで、よーするに設定として「若者の中国伝統芸術への関心も薄らいでゐるなか故宮博物館を舞台に学芸員とか来館者を主人公にちよつとアート指向な人間関係描いた映画、出来ないかな?」である。だからヌレ場もないしドロドロとした人間関係もない。だから「物足りなさ」がある。『藍色大門』だつたか、青春映画のヒロインだつた桂綸?が大人つぽく美しい。戴立忍はこのテの「よくわからない映画」でクセのある役どころの出来る二枚目としてはオダギリ=ジョー的。蔭山征彦は台湾で数本映画に出演してゐる俳優。勿論、中国語が出来るのが売り。故宮博物館プロデュースであるから映画では故宮博物館地下の国宝級の芸術品が眠る地下洞保管庫など覗ける。故宮と、安静とライターの自宅以外で唯一、映画で舞台となつたのが食肆「阿才之店」なのが「いかにも」な世界。『寒食帖』の蘇軾(1036〜1101)は四川省出身、蘇東坡の名の方が有名。物語の最後のはうで、この日本人青年は安静の配慮で、寒食帖の本物はつひに見られぬがスライドで寒食帖を見せながら安静が蘇軾の筆致をこの男二人相手に語る。物語の冒頭、館内で館長ら前にした時にはまんぞくなプレゼンテーションの出来なかつた安静が、今度は自然に、そして的確な指摘で発表をする。学芸員といふ立場で作品をどれだけ語れるか、は、たんに美術作品に対する知識ではない、つてところか。突然、嗚咽する日本人青年。数奇な運命辿り戦前は日本にも運ばれた「寒食帖」が関東大震災で奇跡的に瓦礫の中から発見されてもほとんど傷んでをらず、ただその寒食帖の装丁など手を入れたのが美術品の修復師が、実は自分の祖父だ、と打ち明ける。子どもの頃から祖父にその話を聞かされて一度、この博物館でそれをこの目で見てみたかつたのだ、と。ところで台湾では「正名運動」として蒋介石国際空港や中正記念堂などの名前の見直し図り「台湾の自立」に熱心だが台湾が独立指向するなら故宮美術館の美術品も蒋介石が持つてきたものなのだから中国に返還すべきでは?とふと思ふ。太古のジャスコ旭屋書店でカメラ雑誌受け取り帰宅。カメラ雑誌眺めると、ニコンD300とかキャノンのなんとかとか「デジタル一眼はここまで進化した」と、デジタル一眼がきれいに撮れるのはプロでもトーシローでも一緒なのだからあまり大騒ぎしないで、こんな特集組まないで、ともう食傷気味。アサヒカメラ11月号の瀬戸正人“binran”の写真が興味深い(ニコンサロンで展示中)。台湾の路上で檳榔を売る檳榔西施のオネーチャンらの一連の写真。「檳榔」とせず“binran”と題したことが淫乱なやうな絢爛なやうな、艶のある言葉の響きあり。ところでコシナCarl Zeissで積極的に各社マウントに合はせた新作レンズ発表続けるが、なんとニコンS用に注文限定でSonner T*1.5/50を発売の由。ニコンのSマウントは現行カメラなし、であくまでかつてのSの愛好者のためだけ、とは、いくら注文受けての限定とはいへ大したもの。気になるお値段だが11万円とは、この条件で考へれば良心的。コシナは立派。そしてカメラ雑誌がデジイチ特集でつまらないなか日本カメラの「オールドカメラ天国2007」の数頁の連載だけがアタシの心を癒してくれる。
▼アタシもこの日剰で何度も言及せしは英国香港統治の歴史に特筆せらるゝべき名総督 Murray MacLehose 卿。1971年より82年迄「総督」として香港にある間、香港の民生の充実に努め、9年間の義務教育無料化、公共住宅建設、汚職摘発のICAC設立、新界での都市開発と地下鉄整備(これで新界不可分に)、?小平に対して香港返還問題の対話開始、等々「MacLehose卿なくて今日の香港なし」といふほど香港に多大な貢献あり。2000年に83歳で逝去。その弔報知つた日に余は新界の馬鞍山にて、MacLehose Trail のコース走り故人を忍ぶばかり。このMacLehose卿につき、このたび公開されし英国政府の外交文書から意外な事実、公開せらる。時は1967年、50歳のMacLehose君は外務大臣 George Brown の首席私人秘書官の役にあり。MacLehose君は或る機密書類を蘇格蘭銀行の倫敦にある支店に置き忘れ。これが時の英国首相Harold Wilsonが米国のJohnson大統領に宛てた機密電報で、ベトナム戦争での米ソの停戦に関し米国側が停戦の条件として北が南を侵犯せぬこと挙げ、英国がこの米国による停戦協議を支持する、といふ内容。ほかの英国外交部の官吏が銀行からこの機密書類を無事持ち帰り事無きを得たがケアレスミス、外交部エリートしての出世に大きく影響せしもの。叱責の声ありたるもMacLehose君を可愛がるブラウン外相の取り計らひで倫敦の渦中から離るゝやう駐ベトナム大使に任命されたり。で1971年に香港総督に就任。歴史に「もし」は要らぬが、MacLehose君がもし銀行に機密書類を忘れなければMacLehose総督誕生せず香港の現在もかなり違つたものになつた鴨、と思ふと、まことにをかし。

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