富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-01-04

一月四日(木)ネットの接続状況だいぶ改善される。最近、気になるのは週刊文春なら文春をパラパラと捲ろうとすると「捲りづらい」こと。パラパラ捲ることでだいたいどういう内容の記事があるか、と合点いくのだが捲ろうとすると広告の頁ばかりが「ひっかかる」。ふとよく見ると偶然か広告の頁の断裁だけが本誌記事の頁よりちょっと出ている。次週も一緒。広告を見せるためにこういう策略があったのかしら。諸事忙殺され晩に湾仔のときどき参るどうでもいい茶餐庁に食す。晩には賑やかな食肆が偶然か珍しい閑散ぶり。禁煙条例の影響で煙草一服に憩う客が集まらなくなった所為かしら。茶餐庁の多い雑居ビルで何気に観察すると路上に卓を出す=屋外喫煙可のところには数組の客あり。銅鑼湾などの一等地に店構える大店の茶餐庁は路上に卓を出すも能わず、寧ろ鄙びた路地裏の店こそ路上での商売も勝手でラッキーか。
▼写真撮影。先日、深?に遊んだ際に痛感したがライカくらいのレンズになると撮影対象でなく、まずその日の天気、陽射しの具合でレンズ選ばねばならぬ、ということ。それとGRデジタルがマニュアルモード選ぶとモニタ付き露出計?として使えるのも面白い発見。
朝日新聞の「私の視点」に作家の澤地久枝さんが「憲法60年 明るい年にしてゆくために」と一文を寄せる。無駄な言葉、表現が一つとしてない、贅肉を削りに削った名文中の名文。何度繰り返して読むにも値す。だが、これが「この着物姿のお婆さん、何をそんなに怒ってるの」とか「澤地久枝って女流作家だとは知ってたけど共産党かしら」で「市民運動、だなんて危険ねぇ」と思われるかも。
フィリピン戦線でたたかった大岡昇平氏は、30代なかば、妻子ある身を戦闘に投じられ、死は目前だった。「いま日本が手をあげたら、いちばん困るのはルーズベルト大統領だな」と思う。ソ連国境の戦闘で命をひろった五味川純平氏は「戦争は経済行為が」と見ぬいていた。
二人のすぐれた文学者の指摘を、この年頭にしっかり思い返したい。戦争体験世代が命をかけてつかみとった「真理」の意味を。
06年の秋以降、生活が苦しくなったという人たちが増えた。保険料があがり、医療費の自己負担は増え、年金の手どりは減って、この国が「富国強兵」ラインを行く結果が、生活をむしばみはじめている。
昭和初期の、戦争前夜の世相と似ていますか、という質問は多い。人々が口をつぐみ、世のなりゆきをうかがって腰を引く、その点では、まったくよく似た世の中がまたしても姿をあらわした。
この国には今も「お上」に対する脅えが生きているのか。ことなかれでゆくことこそ、安全コースという守りの姿勢はなぜなのか。
このままでは、歴史はくりかえされる。境域基本法をゆがめ、自衛隊法を変えて公然たる軍隊にし、戦争できる方向が選択された。そこに主権者である国民の意思はどれだけ反映されているのか? 主権在民をマンガにする政治がまかり通ったのだ。
戦死者ゼロ、福祉国家を目ざした現憲法下の実績の否認がはじまろうとしている。さらにこの反動的選択は、同盟国アメリカの要望への答えであること。つまりは主人持ちの政治であること。命をさしだすだけでなく、アメリカの膨大な軍事費への助っ人の一面をもつことをかくさない。
大国の誇りにこだわりながら、この国の政治家たちは、従属の現実を無視する。そのアメリカは、イラク侵略の泥沼にあえぎ、まさにもてあましている。小泉前首相はイラク出兵を速断しながら、責任をとらずに退陣、安倍内閣はその政治路線の具体化に忙しい。
国内の民情悪化とその疲弊は避けがたくなった選挙で議席を失えば、政治家はタダの人。確実に政治は変わる。政治のあまりの悪さ、露骨さに、危機感をもつ市民が全国に生まれた。もうこれ以上の逆コースは認めない。悪法は押し返し、憲法本来の国にもどろうという市民の意志。悪政はおとなしい市民たちを揺さぶり、無視できない運動を拡大しつつある。希望のタネ、希望の灯は、市民運動によって守られる。
市民は自衛する。武器なきたたかいだ。考えて思慮を深め、おのれ一人の思いからはじめて、おなじ思いの人とつながる発信。負けることのできない、あやうい政治の動きになお、希望をもちつづける熱源は、一人ひとりの心、決意にこそかかっている。「憲法を泣かせるな」を、施行60年目にあたる今年の合言葉にしよう。
歴史の犠牲となった死者たちを活かす道は、私たちの掌中にある。いかに状況が錯綜し、本質をかくしても、二人の文学者の言葉は、本質を見抜く鍵、真理として私たちを支えている。
▼最近、信報で香港大学法学部助教授の戴耀廷という人の連載「法治人」冴える。昨日の紙面に「從「七一」到天星對管治的啓示」という一文あり。先月末の中環のスターフェリー埠頭の移設に伴う旧埠頭建物の撤去で時計台解体。市民の関心高まったが、数年前から立法会などで審議事項となっており既存の事実としてこの移転計画進行しており実際の工事が始まったからといって反対運動起きても対応できぬと政府は解体工事進めたが、戴氏指摘するように、もともと解体に大きな反対世論は起きておらず、実際に抗議活動する人々の数は少なかったものがが突然、解体の時の声となったのは昔ながらの時計台の解体が香港市民にとって「集団的記憶の喪失」といった感情を覚えさせること、そして最も重要なことはマスコミがその「集団的記憶の喪失」的論調でこの時計台解体を大々的に取り上げたこと。戴氏はこれについて、だから「やらせ」だといった指摘するのではなく、03年の71デモ(基本法23条立法反対など謳う50万人遊行)を境に香港の政治的環境が変わったこと、と指摘。スターフェリーでの抗議活動といえば1967年のスターフェリー運賃値上げ反対が記憶に鮮烈。当時はまだ香港市民の重要な生活の足であったスターフェリーの値上げ決定に市民が抗議活動始め中国の文革の影響あり大規模な反英暴動となる。この時は具体的な生活への影響が懸念されたのだが71デモは生活とは直接影響のない政治的関心であり、97年の返還以降の政治問題の鬱積が、その爆発が71デモであり、政府と市民との間の分層化顕著となり、今回のように大規模な反対世論など起きておらぬ事象も「集団的記憶」といったファクターで政府への懐疑心が高まる結果を生むようになった、と。御意。

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