富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-07-09

七月九日(日)ご公務。曇り空一転して地を殴るが如き大雨。昼には雨歇む。午後雲の絶え間に少し晴れ、最近このような天気続く。午後遅く帰宅。Z嬢と珍しく街市まで買い物の散歩。Quarry Bayの太平街市の水族館、つまり金魚や熱帯魚、水槽など飼魚関係ばかりの店を集めたビルの地下街は大盛況。その中に一軒「鯉の話」という看板あり。一瞬、右から読んで「鯉の話」なれど字の並びや同じ看板の片隅の住所など左から書かれており「話の鯉」かしら、きっと。「鯉の話」なら「恋の話」か、いや、広東語で恋(lyun)と鯉(lei)は関係なさそうだし「話の鯉」とは何か?、話題の鯉だろか。街市で、香港の野菜はなぜこうも堆く積まれるのだろうか、とあらためて感心する。店の面積の狭さとも関係あるのかしら。珍しくZ嬢とEast Endで夕方ぼんやりとエール二杯。四方山話。太古城のCityplazaの日系雑貨商LogonでKiwiの茶色の靴皮クリーム捜す。同じKiwiでも油性の靴クリーム(shoe polish)は何処の超級市場にもあるが本来の靴クリームが何軒の超級市場にも見つからずLogonにもなくて結局、ユニーで見つける。皮製品のお手入れ、なんぞ今どき誰もせぬのだろうか。今回、茶色を探したのは銀座タニザワのお散歩ショルダーバッグの手入れの為。帰宅して、ついでに革靴も何足か念入りに靴磨き。靴の手入れはとにかくブラシかけと専用の布で丁寧に表面に残ったクリームを擦り取りながら磨くこと。クリームなどたくさんつけると昔は靴磨きでも師匠に「馬鹿野郎、クリームを無駄にするなっ」と叱られたもの。クリームの塗りすぎは逆に皮が傷む。ブラシで皮の表面の汚れや埃を落としクリームをほんの少しつけてブラシかけて布で磨く。ひとしきりクリームで輝きが出たくらいでようやく油性のポリッシュをほんとうに少しだけつけて更に磨く。艶出しと水を弾くためだけのため。ここでペッと唾をすこしつけてから磨くといちだんと輝きが増す、なんて言われもする。好きな音楽を聴きながら好きな酒を飲みながらの靴磨きも楽し。今ではきちんと正装でぴかぴかに磨いた革靴など履く機会も減ったが丁寧に磨いて手入れをした靴というのは半年や一年履かずに置いていても昨日磨いたように見事。靴磨きといえば先日亡くなった橋本龍太郎君が代議士になっても靴磨きは自分で玄関で精を出したそうで彼なりのダンディズムに今どき若い人にもこういう凝り性がいるのか、と感心したが昔から皮を磨くことなど男の暇つぶしなのだろう。
▼溜まった新聞の切り抜きを読んでいたら三月廿三日のSCMP紙にHappy Valleyの香港(紅毛)墳場(Hong Kong Cemetery、香港外国人墓地)の研究続ける蘇格蘭人のKenneth Nicolsonなる学究者の紹介記事あり。Landscape Architectとは日本語で何と言うのかしら、たとえばこちら、でNicolson氏もこのLandscape Architectとして博士論文のための墓地調査。Cultural Landscapeという言葉は耳慣れぬが興味深い。で記事で紹介されるNicolson氏の研究によれば、もともと湾仔に香港占領直後の英国人の墓地が設けられた、言う。恐らく湾仔道の南側、先日この日剰にも綴った旧火葬場、現バスケットコートの近く。本願寺がその近くに建立されたのも偶然ではあるまい。そこが手狭になりHappy Valleyに設けられたColonial Cemeteryが今日の墓地なのだが、丹念に墓石や墓誌など調査すると20世紀初頭に突然、香港島の島南、Aberdeenに中国人の墓地が建設され(華人永遠墳場、Chinese Permanent Cemetery)、中国人は伝統的に異郷の地にあっても死ねば亡骸は故郷の墓に埋める風習あるのに、この墓地の誕生は故郷離れ香港に「移住」した人々が香港を故郷と考えた、或いは故郷にしようと覚悟した最初のCultural Landscapeであり、Nicolson氏は香港で商売なり成功した人々が寧ろ故郷には帰りたくない、と考えた証ではないか、とまで推論する。興味深い。記事読んでいて思ったが、その時期がちょうど中華民国成立の頃。本来、中国の共和制革命が起きて新しい国家建設となる時期に故郷を離れる感覚が生まれていること。香港で資本主義の萌芽の時期で財を成したこともあろうが、近代革命の頃に個人が故郷から縁が切れるような感覚もあろうか。
▼どうでもよいことだが、暮らしの知恵を一つ。つまらない会議、義理で参加の講演会だの、その場にいなければならぬが退屈な時。さすがに新聞、雑誌、本など読めぬ場合。簡単なことであるがコピーで読み物を用意すること。ネットで長文の記事などダウンロードするも良し。その上、A4版のコピー用紙で十数枚とかホチキス止めしておくと、一見して資料に見える。内容は会議などに一切関係ないのだが。それに線など引きながら読んでいると周囲の人は「あの人はずいぶん熱心だ」と感心すること間違いない。新聞の場合は、読む時間がない場合、とにかく切り抜いておいて、A4版クリアファイルに。クリアファイル越しに読んでいると、これも資料っぽい。会議など多いが実際に発言するよか会議に参加していることが大切、といった人たち、例えば政治家とか、やたら会議の時間が多く自分の自由な時間のとれない、例えば教員とか、にお勧め。
▼新聞の切り抜き乱読していて感じたこと。社説の面白さ。IHT紙の社説や常連執筆陣のコラム、信報の社評と林行止専欄、蘋果日報とて日曜日の陶傑氏による「星期天休息」という日曜版社説もかなり水準高き論説。例えば七月二日のこの陶傑氏の「君主立憲花開兩??正祥和各?一枝」など英国女王エリザベス二世の八十大壽とタイのプミポン国王の在位六十年の二つの王政の祝賀取り上げ共和制的民主に対して実に陶傑氏的な皮肉も込めて立憲君主制の意義を語る。おそらく蘋果日報なら蘋果日報で読者の半数以上は読まぬだろうし読んでも「なんのこと?」の読者も少なくないはず。だが蘋果日報蘋果日報なりに新聞としての質を落とさぬために敢えて「読んで意味のわかる読者」をば対象にしていることは明らか。IHT紙や信報などの場合、記事など今更読まぬが(翌朝にはもう新聞価値のない記事多し)社説とコラムのために購読する読者が殆ど。そういった意味で蘋果でもIHTでも信報でも社説なり論説記事の意義あり。それに対して日本の新聞の場合「社説は盲腸のようなもので」とずいぶん昔から言われるが、社説も論説も出来るだけ平易に誰でもわかるように、としてしまうことで、社説を読もうという知的関心の高い人にはレベルが低すぎ、結果、誰が読んでも意味のない、つまり誰も読まない論説となってしまう悪循環(産経など盲腸どころか時たま腸捻転起こしそうな傑作?な社説もあるが)。また、新聞の文字など日本以外ではほんとみんな活字が小さい。日本では弱視でも老人でも誰でも読めるように、と活字を大きくして、難しい漢字をば平仮名に、内容も平易に、平易に、と誰でも読めるようにした結果、誰も新聞を読まなくなり、記者も平易に書くことがいつの間にかお粗末に。どうせ購読者数などジリ貧なのであるから、もうこの悪循環から脱却すべきだろうが、組織が巨大化して数百万部という異常な部数を発行する日本の新聞社には今更そんな改革など出来はせぬ。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/