富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月十八日(木)台風一過。といっても台風、香港掠りもせず廈門に向かう。晩に銅鑼湾の香港日本人倶楽部。この倶楽部の創立五十周年で『香港日本人社会の歴史』並びに『写真集 香港日本人墓地』の二冊組記念誌創刊され史料編纂手伝いの経緯もあり本晩慰労会となり招飲受け末席汚す。宴会終わり座長のN氏、同社のN氏と三人でバーBにて歓談。竹鶴でハイボール二杯。深夜十二時に至り独り久々にバーSに寄りモルト酒二杯。Ben Nevisの酒を瓶詰めはMurray McDavidの7年物。香りは丸いがかなりカチンとした味。
▼一昨日、入管法の改正成立。入国者の指紋、顔写真など採取。この制度の導入は米国に次いで二番目。日本を狙ったテロなどあまり考えられず、さすが従米主義。対韓国、中国には毅然とした態度で米国にはこの態。哀れ。朝日新聞によれば「入国審査時に採取した指紋は、その場でコンピューター処理され、国際的な指名手配犯や過去に退去強制になった者の指紋リストと照合。後日、指紋ごとの「名寄せ作業」も行い、同じ指紋なのに違う名前で入国した者をあぶり出したり、犯罪捜査に応用したりする。採取を拒否すれば強制的に退去させられる」。
小泉内閣メールマガジン。「挑戦の魂を忘れずに」とますますお盛ん。
私たちは、敗戦後の苦難の時代に国際社会から受けた温かい支援を忘れることなく、戦後60年、自由と民主主義と市場経済の価値を守りながら平和のうちに発展してきた日本の経験を活かして、世界の平和と繁栄に貢献するために、国際社会の有力な一員としてその責任を果たしていかなければならないと思います。日本社会には、今、さまざまな不満があります。不平があります。しかし、今日ほど、日本の歴史の中で、豊かで平和で自由な社会はありません。しかしまた、今日ほど不平不満の多い時代はないと言っていいほど、あちこちで不平不満の声が聞かれます。ここが人間社会の難しいところだと思います。
そういう中でも、日本人として失ってはならないよいものを大切にしながら、やるべきことをやる、やらなければならないことをやっていこうと、苦しくてもきつくても乗り越えていく、そこに喜びなり生き甲斐を感じる。そこがまた人間のよいところではないでしょうか。
私も挑戦の魂を忘れずに頑張っていきたいと思います。
……と。市場経済の価値とは何のことか。「資本主義体制を守る」なら反共主義としてわかるが。市場経済の価値、ちなみにGoogleしてみると小泉発言以前はわずかに51件ヒット(笑)。今の世のさまざまな不安、不平不満とは小泉三世自らに起因すること本人どこまで理解しているか。この首相は自分に対する非難も不平不満としか思えず。豊かで平和で自由な社会か……豊かな人は豊かで、格差がひどくなっているが貧しくても餓えるほどぢゃないからピンとこず、平和ボケで隣国とも協調外交が進まず、自由ぢゃなくて勝手な社会。「日本人として失ってはならないもの」って何よ。「日本人として」と限定するものとは。あなたが率先した創った「新しい日本」では喜びも生き甲斐も感じられません。で今回のメールマガジンには文部科学大臣小坂憲次君が「教育基本法から始まるより良い教育を目指して」の一文を寄せる。
近年、子どものモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下などが指摘されており、若者の雇用問題の深刻化など、教育について様々な課題が生じています。このため、教育の根本にさかのぼった改革が求められています。
と言葉は威勢よく流れるが、よく考えてみたまへ。「子どものモラルが近年、低下しています」とか言うに易しいが我々はどれほど、昔の子どものモラルを知っているのか。たんに「昔はよかったのが最近は……」は古代エジプトから続く安易な言い回し。江戸の少年の悪戯さぶり、旧制中学、高校のモラルのなさ、終戦直後の混乱期、石原家の太陽の季節、自分が子どもだった時、それほど「モラル」なるものがあったのかどうか。たんに学校なら学校で今に比べたら校則は厳しく体罰もあり、たんに上手に押さえつけていたにすぎぬの鴨。家庭がかつてはそれほど教育力があったのかどうかは知らぬ、が地域社会で教育力が低下しているのは事実であろう。ただ教育力の問題でなく「地域社会」なるものぢたいが壊滅的なのが事実。「若者の雇用問題の深刻化」は直接、教育とは関係ないこと。強いて言えば若者が働こうという意欲をもてぬ社会を作ってしまった大人の責任。戦後ほとんどの長きにわたり政権を担った与党・自由民主党に本来はその責任を問うべきなのだが。それを全て「教育基本法が悪い」とするこの陳腐なる発想。この改正で教育が良くなるならいいが、そんな筈もなし。
▼ちょっとしたニュースには驚かぬが「性同一性障害男児 小学校が「女児」として受け入れ」にはかなり驚かされる。(朝日)。兵庫県内の公立小学校で「性同一性障害」と診断された小学2年の男の子が女児として通学。これが親の勝手な希望とかぢゃなく地元自治体の教育委員会が専門医のアドバイスなどをもとに判断し受け入れを決定。ある程度「もうこれぢゃダメになっちゃうわ、アタシは」の年齢ならわかるが思春期の第二次性徴控えた児童では「全国でも珍しく」って他にあるのだろうか、「専門家からは慎重な対応を求める声もあがっている」と。幼児期からぬいぐるみやスカートが好きで、男の子として生活することに苦痛を感じていた、と。この程度の子の存在はけして珍しくはないであろう。丸山明宏であるとかピーターであるとか、女の子のような男児はいても驚かぬ。異常ではない。が「7歳の子どものジェンダーをば医師が診断し、教育委員会が女の子として扱うと決定した」ことがむしろ異常に思える。今後の様々な問題に誰が責任をとれるのだろうか。こういう問題が起きることを考えると、やはり根本的には社会的なジェンダーが存在すること、それをもとに学校教育などが行われることの限界が見えてくる。今回のこのことでわかることは、学校での扱い、が問題となっていること。この子が家庭や近所の子らとと遊んでいるのなら、女の子の恰好をしていようが何も問題もない。ただ、学校が男女を分けることで「扱い」が問題となる。そういうことからジェンダーフリーが考慮されてくるのだが、この報道に接し、誰の顔がまず頭に浮かんだか、といえば東京都知事(笑)。「兵庫の教育委員会は何をバカな決定してるんだ!」と激怒し、これでまたジェンダーフリーなど槍玉に挙げるのであろう。東京都では「性別指導の徹底強化」が各校学校長宛に通達される、の図。