富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2005-11-25

十一月廿五日(金)早晩に中環のマンダリンオリエンタルホテル。この聖誕祭の営業終わると一年も休業して大規模な模様替え。客室の、今では大気汚染で誰も寛げぬベランダを廃して部屋の拡張と水回りやハイテク化。格調高いモダニズムのホテルの美しさが損なわれることが残念。東京から本日来港されたN氏と再会。N氏の父が大正時代に来港、香港湾仔利東街で地元民相手に日本製の衣料品売る商店営みN氏は1929年に香港で生まれ41年まで香港に育つ。日本の香港占領前に日本に戻ったため戦禍に遭わず当時の学校の記録など今では貴重な史料を而もきちんと整理して保管されている。年に一度ほど来港される。いつもこのホテルに投宿されるが来年来られたら様相も一変のはず。N氏とホテルのチナリーバーで一飲。このバーも十数年前に若造の身分で緊張して訪れてからベルギー人だかのバーテンダーと懇意になりしばらくよく通ったが(ここでだいぶモルトウイスキーを味わう)六、七年前だか食事メニューなど揃えるようになり、かつては女人禁制だったという格式高いバーもガキは増え騒ぐし、ドレスコードもかつては最低スマートカジュアルだったのがGパンに運動靴、はたまた半ズボン客まで受入れるようになり、携帯電話もいつの間にかリンリンと五月蝿い。呆れて、中環で憩いの場をFCCに見出してからは一向に足を向けぬようになったが、あと一ヶ月で閉業で改装後はかなり変わる予感もして、N氏と早晩の一飲に訪れた次第。ホテルを出ようとして香港日本人倶楽部の理事で日本人墓地の墓誌発行にむけ献身的な活動されている在港四十数年のI氏にばったり遭遇。立ち話では勿体ない。I氏と別れN氏と歩いて萬宜大廈の小南国に赴き大閘蟹や清炒蝦仁、小籠包など少しずつ食す。I氏の小学生時代の香港の様子いろいろお聞きする。トラムでShau Kei Wanまで行き小高い崗を越え、どうやら今の柴湾のあたりで海水浴。リパルスベイはとても湾仔の商店の倅では行ける場所ではなかったらしい。戦争ももちろん侵略する側とされる側の国家ではあるが、実際に不幸になる人と戦争で儲ける人はどちらの国にもいるわけで、戦争は強ち正と悪には二分できぬことなど語る。かなりいろいろ毎回お話をお聞きしており、いずれそれをまとめなければならない。N氏をホテルまで送り一人で深酒にならず帰宅。節制。
吉林省石油化学工場火災による河川汚水でハルビン松花江が極度に汚染される。中国の地理に少しでも明るい人なら一瞬「えっ?」と思うはず。ハルビン黒竜江省省都吉林省の北、その黒竜江省の、詩にもうたわる美しい松花江ソ連国境のアムール河に至る大河で、なぜそれが吉林省から流れ出ているのか?と疑問に思ったが、吉林省の西域は内蒙古自治区にも接しており、地図でよく見ると松花江黒竜江省の山あい(興安嶺山脈)を源流にするが斉斉哈爾(チチハル)の南で一旦、吉林省の西北に入り、また黒竜江省に戻りハルビンへと至る。と言っても河水は自然に流れているわけで行政区分での省など関係ないのだが、そういう事情で吉林の化学工場での事故がハルビン松花江の汚染を齎す。思い起こすのは廿数年前の一人旅。長春では当時「外国人宿泊指定」は駅前の長春賓館(旧大和ホテル)ともう一軒だけでバックパッカーには高嶺の花。駅前の本来外国人宿泊不可のホテルに頼み込み泊めてもらい、英国人のT君がシベリア鉄道に乗り長春通貨する際に当時外国人は闇で入手するしか術のなかった人民元をホームで渡してくれた話はいぜん日剰にも綴ったが、この長春からチチハルに向かおうとして、通常の鉄路はハルビン経由なのだがハルビンはどうせ満州里からの帰りに通るので、と鉄道好きゆへ別な路線で進もうと何も考えずに吉林省の白城という内蒙古に近い小城市行きの列車が長春からあるので、ここで一泊して翌朝の列車でチチハルへ向かおうと思ったのだが、夜遅く白城に到着すると駅の出札で「外国人だ」と駅員が慌て公安が来る始末。公安のジープで接待所に連れて行かれ(幸い宿泊費は安かったが)翌朝、また公安のジープで駅に送られ列車に乗せられる。公安の職員がかなり親切で事情がわかったのは、この白城なる小都市は軍施設があり外国人立ち入り禁止(当時)。我もつい列車の乗り換えなので非開放城市に公安の許可とっておらず。その白城からチチハルに向かうあたりがこの松花江の水域。当時はのどかな農村が続き夏八月は一面の向日葵畑広がる光景。所々に石炭工場や製鉄所など点在していたが、それが今では大規模な化学コンビナートなのであろう。でハルビンであるが、長春で宿したそのホテルの八人部屋の同室に黒竜江省の国営の新華印刷工場に務める陳という初老の男性があり、その中国旅行で広州、北京は外国人専用のホテルだったため初めての「モグリ」に言葉もできず戸惑う我に陳さんはかなり親切で、ハルビンに着たら必ず尋ねるように、と連絡先をもらう。で二週間後だかにハルビンに着く(途中、もう一度、黒竜江省の山あいで公安のお世話になったが、その時も公安はジープで「このへんに外国人が来たのは60年代のロシア人以来、とあちこち案内までしてくれた……笑)。新華印刷工場の敷地内にある陳さんの家で手作りの餃子ご馳走になり陳さん夫妻と市街に散歩に出る。ロシア風の街並みの残る美しきハルビン旧市街。キタイスカヤ通り。時間があれば毎夕のように二人で散歩する、という松花江の河岸の、確かスターリン公園。松花江の洪水の時にソ連の援助で堤防決壊防いだ、との由。美しい夕陽のなかを手をつないで歩く50すぎの陳さん夫婦にこちらが照れる。この松花江の向こう岸に太陽島という名の、帝政ロシア時代に開発されたロシア貴族らの避寒地の別荘あり。市内のホテルが高く陳さんの紹介だったか、で太陽島にある、どこだか国営企業の療養所にモグリで宿泊させてもらい、毎日、フェリーで松花江を渡りハルビン市街に。この八月(以下の話も日剰ですでに書いているが)日航機の御巣鷹山での惨事。それを瀋陽だったか大連だったか、新聞社の壁新聞で見て知ったのだが、同じ新聞の片隅にベタ記事でハルビンではその松花江を太陽島に渡るフェリーでエンジンの火災事故あり三百人だかが死亡、とあった。わずか数行のベタ記事。二週間ほど前に毎日あの松花江を往復していたフェリーが、と思いぞっとする。あの松花江がいま基準の50倍だかの汚染。アムール河に流れソ連との問題になるのも必至。廿数年前に事故で三百人死亡がベタ記事も驚いたが今回も化学薬品の河川への流入から九日だかして事実公表。政府関係者はマスコミ報道だけが情報公開の適切な手段ではない、と嘯く。
▼香港鼠楽園試験開業から百日。ついに鼠楽園側も入場者数など公表。入場者数は鼠側の発表で100万人。つまり1日あたり1万人のみ。当初1年の入場者数を560万人と予定しており現実には遠く及ばず。来訪者は地元、中国内地、海外をそれぞれ三分の一と見積もっていたが現実には地元客が49%を占め26%が海外からで中国内地は24%に留まる。ここが誤算。日刊ベリタにこの件、記事送稿。

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