富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦五月五日。端午節。朝寝貪る。快晴の空を眺めつつ日向に出るほど体調回復しておらず昼まで読書。文藝春秋七月号に各界人士の小泉靖国参拝是非を問う問答あり。文藝春秋であるから参拝すべきが多いのは当然だが数学者・森毅氏の「取りやめるべき」での一文が秀逸。
神社に行くのは個人の勝手だけれど、総理ではそうもいかぬ。気の毒ね。中国がどうなるかはかなり心配です。中国で反政府暴動が起きて大地震になったら、日本にも大津波が来る!!反日ぐらいでガス抜きができているのなら辛抱しましょうよ。悪口を言われているだけなら、大した被害じゃない。それに、悪口を言われるようなことをしてきたことだし。実害の少ない悪口にカリカリするのはチンピラの証拠です。
……と森毅。見事な達観。同号に外相町村信孝君の「対中国「へくだり外交」を拝す」といふ記事あり。町村君の談ぢたいはけして暴論に非ず正論である。がそれが外相といふ立場でこの「対中国「へくだり外交」を拝す」という題で発表されてしまふことが対中国の関係良化にもならぬし彼自身の政治家、而も現役の外相というでこの発言はいい方に向かわぬ。また町村君の発言には思い込みもあり例えば反日暴動の最中四月十七日の北京での外相会談のための訪中では北京の空港から北京市内への高速道路や市内の一般道が封鎖され町村外相一行の隊列が赤信号も無視して走る様に「まさに厳戒態勢」と驚いているが北京では共産党政府首脳クラスや国賓の場合これは当たり前。外相クラスでの実務者会談では通常ここまでやらぬが今回は日中関係が微妙な時期の訪中であるからこそ中国側のこの措置。またその日も「瀋陽深セン、アモイ、長沙、香港など中国全土で、大規模な反日デモが行われていました」と述べているがこれも大袈裟な話。二が月遅れで岩波書店『世界』五月号もようやく読了。午後九龍に遊ぶ。本屋、カメラ屋、アウトドア屋など素見す。知る湯屋により垢抹りと按摩。晩にファッションデザイナーであるが最近は一流の随筆家であろう旧知の登β達智君らと招飲の約あつたがW君が時間空くのが晩九時過ぎで体調芳しからず無理はせず。独りフォートレスヒルで地下鉄降り福建菜の●江春菜館(●は「門」構えに虫)にでも晩飯と思えばすでに店の形跡もなし。残念。斉藤さんの手打ちうどん屋で甘煮椎茸のうどん。美味。気がつくと右手首に蕁麻疹あり。今晩くらい酒を飲むまい。帰宅して『世界』六月号読む。内藤正中島根大学名誉教授)の「竹島は日本固有の領土か」は見事な論文。昨晩『週刊文春』に勝谷誠彦氏の「韓国漁船を銃撃せよ!」といふ扇動的な一文読んだ後味の悪さに比べ江戸からの文献紐解く学究の見事さ。勝谷氏なら内藤「正中」といふ名前でシナ贔屓か、とか言いそうだが。竹島鬱陵島との歴史的認識、日韓の認識の違い。結論から言うと内藤先生は竹島は日本領土というのが難しい、とする(詳細は下述の通り)。喉の痛み失せ咳もでぬが体調不良のままで喉がおそろしく渇き突然大量の発汗など身体の生理が乱れている。早寝。
▼外務省の竹島問題サイト(こちら)で江戸初期にすでに「伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた」と書いているが第一に伯耆藩という藩が存在せず(因幡伯耆の両国を保有した藩は鳥取藩か因州藩と呼ばれ、伯耆藩と呼んだのが韓国側が「伯耆州」と言っているのに影響されたとすれば情けない、と内藤先生)、ここでいう鬱陵島は当時、竹島と呼ばれており、現・竹島は当時は松島と呼ばれており、つまり幕府は竹島鬱陵島)への渡航をまず許可して次ぎに松島(竹島)の拝領を受けたことになる。が渡航を許可することぢたい朝鮮領ではないか、という危惧と考えられる。で実際に朝鮮政府と竹島鬱陵島)について具体的に争議となったのが竹島一件(1690年代)。朝鮮政府は十五世紀以来、鬱陵島は和冦の被害があり無人にする空島政策をとっていたが領有権は放棄しておらず。で江戸幕府との争議の末に幕府側は鬱陵島への渡航禁止を鳥取藩の命じる。外務省はこれを理由に「竹島への渡航は禁じなかった」としているが、当時、松島(竹島)については竹島鬱陵島)に附属する島として特段の取扱いはしておらず実際に松島は竹島往復に立ち寄る程度ので竹島鬱陵島渡航禁止となれば誰も松島(竹島)へ行かなかったのが事実。当時の幕府と鳥取藩の文書やりとりを見ると幕府側が「竹島鬱陵島)がいつから因州伯州の附属になったのか?」という質問に鳥取藩は「竹島因幡伯耆に附属するものではない」と答え、「竹島鬱陵島)の他に両国(因州と伯州)附属の島はあるのか?」という質問に鳥取藩は「竹島(鬱陵島)松島(竹島)その他両国附属の島はない」と答えている。竹島鬱陵島)と松島(竹島)を一つとして扱っているのは明白で、それなら竹島鬱陵島)への渡航禁止と別に松島への渡航禁止はしなくてもいいことになる。また次なる問題はなぜ、この竹島と松島の名前が混同されたかにはシーボルトが登場。この渡航禁止でしばらく当時の日本の意識からこの2つの島が消えるのだが十八世紀後半となると西洋船が日本海にまで出没するようになり海図にない竹島と松島を「発見」しスミスの「日本図」にもこの二島が登場。これを長崎にいたシーボルト先生が竹島と松島を逆に印してしまう(これが後に問題となるのだが)。更に仏蘭西捕鯨船が松島をリアンクール岩と呼んだのが日本語でリアンコ島と呼ばれるようになったほど。外務省の資料では触れておらぬが明治に入ってからも明治九年に内務省の調査に基づき岩倉右大臣以下三名の参議の同意を得て「竹島他一島本邦関係無ノ義」が決定されている。が対ロ戦争など海戦上この島の重要性が認識され日本政府は明治38年閣議決定を経て島根県告示により竹島島根県編入竹島を領有する意思を再確認するのだ(外務省もそう書いている)が、なぜこのリアンコ島を松島と呼ばなかったのか。「新島」命名島根県内務部長から意見を求められた隠岐島司が鬱陵島竹島と呼んでいるのは誤称で海図では竹島なので(シーボルトの誤解を信じている!)新島=リアンコ島が松島だ、と回答。それで本来、松島であるはずの島を竹島として登記してしまったほど認識が浅い。当然この頃は日本による朝鮮併合目前で朝鮮政府は日本政府に反論できる状況にあらず。戦後はこの二島の所有権については朝鮮戦争の影響が大きかった事実。戦後、連合国軍は当初この二島を朝鮮領としていたが朝鮮が南北にわかれ内乱が始まるのを見た駐日米国政治顧問のシーボルト(長崎のシーボルトとは別人……当たり前か)が安全保障上この島が朝鮮に帰属することの再考を提案。これが日本にとって竹島の領土化に大きく影響している。……と歴史の経緯を知れば江戸幕府渡航禁止し仏蘭西捕鯨船のつけた島名で呼ばれシーボルトの誤解で竹島という名前で明治期に領有権主張し……では自領といふにはお粗末かも。外務省の情報には当然、シーボルトの誤解もリアンコ島と明治時代呼んでいた事実も何も書かれてはいない。だが大切なことは内藤先生も、だから日本は竹島の領有権を放棄せよ、とは言っていないこと。持論の強要でなく日韓両国が関係資料を対わせ共通の土俵を作り客観的に解明せよ、と。御意。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/