富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月六日(月)曇。風邪癒へず朝のうち近隣のC医師訪れ診断請ふ。毎年冬に流行りこの時期には失せる流感が今年は寧ろ春から感染率高まる。C医師も診断の際には余は前回三月下旬にやはり流感で診療請ふたがずつとマスク外せず、と。帰宅して服薬。寝たり起きたりで休養。溜っていた雑誌数誌読む。芸術新潮の四月号は春に京都国立博物館で特別展あつた江戸の水墨画の奇才・曾我簫白の特集。簫白といふと一般には鬼女などグロテスクな通俗絵ばかり印象にあるが(こういう特集ではいつもそう収まるものだが)実はすつきりとしたデッサン力も見事で山水画でも同時代の円山応挙の余白活かした作品とは対局のこれでもかといわんばかりに濃密な山水画の存在(ボストン美術館蔵・楼閣山水図屏風など)。同五月号は伊太利亜ボローニャ静物画家モランディの特集だが橋本治の連載「ひらがな日本美術史」の梶原緋佐子の巻が見事。久々に治ちゃん節全開で大正といふ時代に女を描いた、という一点で無理矢理に竹下夢二と梶原緋佐子を論じてしまふのだが梶原緋佐子といふ画家を敢えて大正期といふ二十代の作品に焦点を当てる(緋佐子は1988年に数え93歳で没)。何故か、は三十代になつた緋佐子は単なる美人画の画家になつてしまふから。緋佐子が二十代で描いた女は疲弊しきつている。なぜか。仕事に疲れた、働く女だから。業種は異なつても伝統的な和服姿の女たちはプロレタリアート。で緋佐子は橋本治に言わせれば昭和に入ることにプロレタリアートの女を描くか美人画を取るかの選択が必要となり緋佐子は美人画を選んだことで普通の美人画の画家と後生が決まる。でその緋佐子と夢二がどう関係するのか?といふ点については尻切れトンボになり次回にまわされる、という治ちゃんらしさ。で次号(六月号ポスター画のレイモン=サヴィニャックの特集号)での連載を読むと、夢二という画家は緋佐子が「社会主義か、美人画か」の選択を強いられたのに対して夢二は敢えてその選択をせずにどちらも含んだことで昭和初期に美術史の何処にも位置づけられない魅力ある夢二の世界を構築してしまつたと治ちゃん。御意。で夢二の何処に社会主義があるか?といえば一つの例は描く女性はみんな華奢で繊細なのだが大足であること。その美とは極端にあるリアリズムがそれ、となる。で夢二の達成が晩年の作品「立田姫」。夢二といへばあの大きな微睡んだ瞳だがこの立田姫は目を閉じる。だが閉じても表情がある。普遍的な人の表情になった夢二の描く女性。(治ちゃんはここまでしか書いておらぬが)昭和六年。もはや日本は戦争にまっしぐら。夢二は最高傑作を遺し三年後に亡くなるのだから。確かに牀に伏せてはいるがビジネストラベラーズ三冊、わーずわーすの四月号、Penの二月十五日号JJ的東京マップなど読み旅行案内など目を通す。夕餉に親子丼。NHKのニュース9で巻頭ニュースが明後日のW杯北朝鮮で十五分に及ぶ「報道」に呆れる。W杯予選といへばバーレーンからの中継観ていてサッカー場の企業広告で何が目立つかといへば朝日新聞。他の全ての企業がファミリーマートまで英語の看板である中で唯一漢字で朝日の「日」の字朱色にした愛国心。世界に流れる中継なのであり日本のクオリティペーパーであると海外での認知もあるのだからAsahi Shimbunと英語にすべきでは? 進歩派気取りで実は社主制の近代以前の企業体質かも。流感直すべく早寝。
安田記念優勝のアサクサデンエンについて誰かこの名前にことで書いていないかと日記漁れば「やはり」月本さんが書いていた(笑)。アサクサデンエンが2億5千万円だかで購入されたのは昨日何かで読んだがノーザンダンサーを祖父にもつシングスピールが父でシングス=ピールだと最初思って、ここに「田園」の謎が?と思ったがSingspielでSing Spielであろうから「豪快に歌え」か。だが月本さんが「浅草田圃という名前はそれなりに。読みもアサクサタンボのほうが好かったかな」と書かれていてはっと膝を打つ。何故そこに気づかなかったか、ついデンエンで田園とばかり考えていたが浅草田圃か、酉の市かと合点。荷風散人に確か浅草田圃についての文章ありと荷風全集紐解けば、そうそう「里の今昔」がそれで
大音寺は昭和の今日でも、お酉樣の鳥居と筋向かひになつて、もとの處に假普請の堂を留めてゐるが、然し周圍の光景があまりにも甚しく變つてしまつたので、これを尋ねて見ても、同じ場處ではないやうな氣がするほどである。明治三十年頃、わたくしが「たけくらべ」や「今戸心中」をよんで歩き廻つた時分のことを思ひ返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる處ではなくして、別の處にあつてその向きも亦ちがつてゐたやうである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向ひ、道端からはずつと億深い處に在つたやうに思はれるが、然しこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉樣の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲がつて行つたやうな氣がする。辻を曲がると、道の片側には小家のつゞいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡す限り水田のつゞゐた彼方に太郎稻荷の森が見えた。吉原田圃はこの處を云つたのである。裏田圃とも、また淺草田圃とも云つた。單に反歩とも云つたやうである。
お酉樣の鳥居は鷲神社。電車通りは当時、大音寺通りと呼ばれ、合羽橋から入谷町、千束町を抜け南千住に到る(現在の国際通り)都電で恰度大音寺の前が千束町の停留所。鷲神社の裏が新吉原で娼妓相手の吉原病院がこの地にあり。樋口一葉の「たけくらべ」の世界……と話は尽きぬがアサクサデンエンの馬主氏の会社は現在は元浅草一丁目で創業が大正十二年といふから仮にこの地(浅草区七軒町)にあつたとすると(現在の都立白鴎高校、当時の名門府立第一高女の近く)同じ浅草とはいへ2キロほど離れてはいる。が持ち馬に浅草といふ冠をつけるのが田原氏の主張とすれば浅草田圃といふ名前も当然あつてもよし。だが、やはり浅草田圃ぢゃ一葉、荷風の世界で馬もどうも大川の土手を風情豊かにのんびりと、でやはり競走馬としては選べぬわいなぁ。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/