富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月四日(土)朝寝貪り目覚めれば「ラクサが食いたい」と突然の食欲。コンビニでゲータレードの大瓶購い水分補給しジムでサウナに入りQuarry Bay祐民街にある来記といふラクサ評判の店でラクサ食す。大雨。帰宅。午後にRoyal Asiatic Society(王立亜洲学会)と名前は堅く権威ある英国の学会の香港支部の企画で(英国では実際に権威ある組織だが香港支部は余が会員になれるのは権威もないか)薄扶林の香港大学大学堂宿舎と伯大尼堂(The Bethanie)参観。古い建物好きのZ嬢もゲスト参加。約四十名参加。大学堂宿舎は元々1861年に蘇格蘭人のダグラスなる商人の住宅兼事務所に建てられし洋館にて数年後にダ氏引退後廿年程空き屋となるが十九世紀末に仏蘭西キリスト教伝道団Nazarethがこの建物に教堂をば増築し拡充し施設として用いる。アジア各地の人文の書き物を仏蘭西語に翻訳し出版するなど中心的役割も果たす。日本軍の香港占領で軍施設として徴用され戦後は香港大学の学生宿舎となり今日に至り現在も伝統ある百余名の学生宿舎。この寮生に案内され建物を見学。今日は天安門事件の六四の追悼の日にて寮内のあちこちに六四に関る資料や写真の展示あり晩の追悼集会への参加呼び掛ける。続いて薄扶林道向かいのThe Bethanie参観。こちらは1875年に同じ仏蘭西のEtrangeres de Parisなる伝道団により建設されたアジア各地で布教する神父らの熱病など風土病に対する療養所施設(仏蘭西の布教団は十七世紀後半よりアジアに参るようになり十八世紀初頭には広州に教会を建立)。このBethanieの教堂はOzouf神父の設計で、このOzouf神父は(十九世紀末だろうか)東京で司教となり東京に仏蘭西教会の建物も設計したといふが(このBethanieと似た建物だといふ)戦争で焼失。1975年まで仏蘭西伝道団が此処にあつたが建物老朽化で彼らはハッピーバレーの聖ミカエル教会に移る(当時この地で布教の神父らは現在、柴湾のカソリック墓地に多くが眠る)。その後この建物は香港大学出版社の在庫書籍の倉庫として1997年まで用いられ政府はその後2000年からこの建物の保存のため研究検討に入り03年にこの建物を香港演芸学院の貸与すること決定し建物の原状そのまま維持し内部改修の上映像メディアセンターとしての今後の活用を決定。その大規模改修が来月から始まり、今回は改修前の最後の内部見学。此処はその建物も歴史的価値あるが庭園は今でこそ手入れされず鬱葱としているが神父らがアジア各地から持ち寄せた植物がここで育てられ(当時の香港島は荒涼とせし岩肌)今でこそ香港特区の象徴図章となつたBauhiniaの木も香港では此処に初めて藝えられたもの。庭園の崖下には牛舎もあり、何故此処に牛舎かといへばこの地がかつてはデイリーファーム社の乳業盛んだつた為で先日Z嬢の発案で歩いた薄扶林の村はそのデイリーファームに働く地元民のための職能村であつた事実。バスで中環に戻り久々に和安里の明珠越南餐庁に食す。ジムのサウナに一浴し帰宅。夕方より喉痛と悪寒あり。早眠。
▼次期行政長官「候補=当選」のドナルド曽蔭権君ラジオ番組で天安門事件への見方につき「当時は自分もあの事実に愕然とし考えさせられること多かったが」としつつ「その後の十六年の中国の社会的安定や経済発展などを考えれば天安門事件についても感情的にならず客観的な評価をすべき」と発言。唖然。歴史とはこうして見直すべきものか。それなら戦後の日本の平和主義と民主化そして経済発展を見ればアジア侵略など戦争責任もすべて解消される、というようなもの。

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