富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十九日(土)快晴。北角よりフェリーでホンハム。ホンハムの市街歩くなど十年以上なかったことでその賑わいに驚くばかり。かつて八百半のあつた艦船型の建物も今になつて此の地がかつて黄埔(ワンポア)の造船所であつたこと意図してのその船型の建築であることなど思い出す。初めて蔡瀾美食坊に入る。詠藜園で麻辣担々麺。満足できず広東某茶餐庁にて叉焼飯食す。いずれにせよフードコートだの美食坊など評価に値せず。ジム。タクシーで何文田の高級住宅地抜けて九龍の風呂屋。垢抹。按摩。夕方FCCに寄れば幸いにRugby Sevensの中継見る客で混まず閑散。ドライマティーニ二杯とウヰスキーソーダ。十日の董建華の辞任で十一日からの新聞をせめて信報読めればいいかと知古のM氏に購入頼んでおりその間の新聞読む。十四日に香港大学世論研究計画主任の鐘庭耀氏が指摘するのは董建華の何よりの失態は例えば内地で生れた子女の香港の居住権の問題(99年)にせよ法解釈の以前に董建華が内地出生子女の香港居住権に否定的な見解示すなど「法治精神の軽視」と。十五日の畏友登β達智君の随筆が傑作で一言「過去七年香港で生まれた子供の誰一人「建華」と名付けられた子はいないだろう」と。御意。それぢゃこの先子供に(代理行政長官となった曽氏の)「蔭権」か英名のドナルドとつける子がいるかどうかはわからぬが英国の爵位有するこの曽蔭権を特首(特区行政長官)に戴きまた香港は盛り返すことが出来るのか、ハレルヤ、アーメン、と登β君は揶揄。董建華がどれだけ失策あつたかの概略だけでも示せば
97年 毎年八万五千戸の公共住宅建設を提言し不動産価格下落。三年度にこの政策は98年時点ですでになくなっていた、と弁明。
98年 母語(中国語)教育推進。多くの英文中学を国語に転じさせようとして不満高まる。
98年〜00年 景気回復と公共事業推進で香港をファッション港、漢方薬港、生花港などさまざまな特色ある都市にしようと立案。すべて実現せず。アジア大会誘致に失敗。
99年 特色ある都市建設で唯一実現のサイバーポート建設を李嘉誠財閥に丸投げ。他の財閥からも非難囂々。ちなみに李嘉誠董建華の家族経営する船会社倒産の危機で中国系資本と並び買い支えの実績あり。
99年 香港市民が大陸で生んだ子供の香港居住権の有無について香港の最終裁判所の判決を不満として全人代に法解釈を請ひ、香港の法曹関係者が法治違反に抗議しデモ。また星島日報の発行部数虚偽公表について「公共利益」を理由に指揮権発動し社主の胡仙を刑事立証せず。
00年 香港大学世論調査董建華の支持率調査中止するよう圧力かけた事実が発覚しそれに応じようとした香港大学の学長、副学長が辞任。
02年 基本法23条に基づく国家保安立法化で強引な手法に市民反発し03年7月に記録的な50万人デモ。立法化失敗の引責で保安局長葉劉淑儀が辞任。
03年 財務長官の梁錦松が自動車税値上げ前に自家用車購入し引責辞任
03年 SARSで1700名が感染し299名が死亡。疫病対策の遅れの責任とり衛生局長が引責辞任
04年 07年の特首選挙、08年の立法会選挙で直接選挙実施せぬことが全人代で決定。民主化の遅れ。
……とよくもまぁここまでの無能ぶり。South China Morning Post紙が董建華辞任翌日の11日社説で指摘していたが董建華が香港返還と中国回帰での経過期の行政長官としてはけして誤った人選ではなかったのかも知れぬが最大の誤謬は02年の選挙で董建華の再任を中国政府が強引に推し進めたこと、と。一説では董建華自身ですら二期目続投には非積極的であつたのに江沢民らの決定で続投決定との由。帰宅して晩に湯豆腐。Z嬢の話では北角に最近は無農薬野菜売る八百屋あるそうで今晩の湯豆腐もすべてその無農薬野菜。NHKの「義経」ビデオで観る。

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