富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月五日(土)昨晩遅くに聴いた高橋悠治のバッハ「ゴルトベルグ変奏曲」。淡々とした演奏の織りなす文も凄いが悠治氏のライナーノーツはもつと凄い。バッハの時代、まだ実際の平均律もピアノといふ楽器も完成されていなかったが音楽はすでに啓蒙主義による世界の把握を試みており、それは17世紀から始まる植民地主義と奴隷労働に支えられた欲望の文明のひとつの表現。世界は未だにこの普遍主義の押しつけからの出口を見つけられずにいる。このゴルトベルグ変奏曲は「紙の上の作曲術の規範にすぎなかった」が20世紀後半になり北米から欧州そして日本とコンサートのレパートリーとなった経路が新自由主義市場経済の流れと同じなのは偶然だろうか。現在では毎年のようにこの曲の新しい演奏のCDが消費される。悠治氏がその競争に加わってどうするのだ。「音楽の父」となったバッハの父権的権威への抵抗。音楽をその時代のパラドックスの環境にかえすこと。均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりとした足取りをゆるめて統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムを見つけ(……と具体的なその作業についての説明が続き)もともとは鍵盤演奏の教育のために出版された音楽をバロックの語源でもあるゆがんだ真珠のばらばらな集まりと見做して初めて触れた音のようにして未知の音楽をさぐるのが毎回の演奏。その鏡から乱反射する世界を発見することが音楽を聴くことの意味。と言ったところでこれも事実の半分に過ぎない、と悠治氏は言う。あとの半分はきままな指についていく遍歴の冒険。ちがう世紀ちがう文化の死者の世界にいるバッハとの対話から織りなす現在の東地域の物語。農暦一月廿五日。驚蟄。朝の気温こそ摂氏十二度だかと低いが珍しく好天に恵まれる。昼すぎに裏山から大潭を抜け南岸の海岸まで走る。画像は1941年に英軍が日本軍迎え撃つべく山中に建造の野営の炊事場。日向はかなりの暖かさ。スタンレイを経てバスで帰宅。早晩にFCCのバー。ドライマティーニラクサ食してウイスキーソーダ。テレビのモニタに董建華胡錦涛国家主席の対談生中継で流れる。和やかな雰囲気。記者の前で突然董建華辞任の確定もすまひ。今週末だかの董建華の政協副主席就任の決定の後とならう。フェリーで尖沙咀。文化中心にて中国国家話劇院の『琥珀(Amber)』の公演観る。文化中心の大劇院にて六日連続とかなりの熱の入れやう。主演は『藍宇』の劉華で恋人役に『春天的狂想』『美麗的大脚』の袁泉。舞台設計と孟京輝による演出はかなりの水準だが寥一梅の原作と脚本による物語ぢたい余は政治性、因果や不条理ぶりなき恋愛物は好まず。主人公のキャラ設定が弱い。そのうえ演じるのが劉華。まだ垢抜けず。二時間半近い舞台でかなり抽象的な台詞の連続こなすだけでもさすが北京中央戯劇学院の英才で香港でこれだけの興業に集客ある俳優としての抜擢だろうがこの人は『山の郵便配達』など山間の純朴な青年演じると映えるが都会の「かなりギリギリな」帝王気取るには難あり。終幕での舞台でのカーテンコールでも挨拶した時に脚が凹脚に開き我の隣の客が二人で笑ふ。この役なら多少年くっているが『藍宇』で共演の胡軍こそ適役ぢゃなかろうか。フェリーで中環。帰宅。村上春樹海辺のカフカ』読了。うーんやっぱり(笑)。途中までかなり物語に引き込まれたが結果「これか」といふ感じ。やはり15歳であの設定には無理あり。最初は「面白い子」だがやはり途中でもはや息切れ。後半は輝きも色気もなし。筋ではちょっとしたことだが気になる点もあり。たとえばナカタさんと旅する星野青年がカーネル=サンダースの紹介で高松のフーゾクでHする場面。おフェラで射精した彼は「浴槽にゆっくりと身を沈め」るのだがフーゾク嬢そのあと青年の「亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら」とある。濃厚なシーンではあるが一戦終わってそのままベッド上で「亀頭に唇をつけ、精液の残りを」ならわかるが通常、一旦風呂で「浴槽にゆっくりと身を沈め」までしてそのあと亀頭に精液が残るかどうか。また中野区野方で交番に自首してきた殺人犯のナカタさんを「いいからもう帰りなさい」と扱って捕まえ損なった警官はそれがバレれば一大事とだんまりを決め込むのだが、それがバレて警察はナカタさん捜査に乗り出す。これは推理小説なら非常に重要な点だがファンタジーだから許されるのだろうか「彼は口を閉ざしていた。しかしなんらかの事情で??どんな事情かまではわからないんだけど??事実が露見してしまった。もちろん懲戒処分になった。気の毒に、一生浮かびあがれないだろうね」で済んでしまふ。話の枝葉なのだが井上ひさしならここで一つの挿話を置くであろうところ。

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