富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月十二日(土)曇。有志で西貢のシャープピーク登攀の予定が諸事情により中止。新聞読み読書始め、ふとこのまま一日終わること惧れ手帖見ればヴィクトリア公園にて所属のランニングクラブのH氏主宰の定期ジョギング十時よりあり時計見ればあと十五分で慌ててタクシーで参加。公園にジョギングに行くのにタクシー乗車は本末転倒だが。H氏夫妻の他にN夫妻。それに今月下旬より四国遍路に参られるY氏は同じ重さのリュック背負って歩きの練習で寄られる。遅れてシャープピークに同行の予定だったT夫妻も参加。小一時間、公園のジョギングコースを何周も走る。終わって「つい」ヰンザーハウスの馴染みの電脳商ケーブレクス訪れ「つい」iPod Shuffle購入。銅鑼灣のジム。午後帰宅。夕方Z嬢に付き合いHappy Valleyへ。夕餉にと景光街の正斗にて粥を持ち帰りで注文。どう見ても養和病院の帰りの客あり。公立だの近くのクリニックぢゃなくわざわざ養和病院で診察→医者が粥食勧める→お粥なら正斗、といふ明らかなルートあり。粥が出来るの待っていれば日本人の女客三名現れぶっきらぼうに「えーと、三名」と日本語。店主も日本語多少解して対応。客は広東語が出来ぬのもよいし日本語でも何も悪くないが愛想とか謙虚さ微塵もなく不貞不貞しく横柄な態度。帰宅して粥の入った店の袋見て「創業一九四六年」とあり「嘘だろ」と。余は九十年代初め景光街のこの店の対面に住まひ当時は「満粥」だったかバブルの時代に高級粥店として開業。それが「正斗」となり日本人がツアーバスで押し掛ける程の人気。それが1946年開業の筈もなし。だがよく見れば店の名が「何洪記」とあり銅鑼灣の粥の老舗。よくよく見れば袋の一方は正斗でもう一方が何洪記。同じ経営だったとは。晩はせっせとiPod Shuffle用にiTuneにお気に入りCDからの楽曲移入。NHKスペシャル「あなたは人を裁けますか」の裁判員制度のドラマ見る。こういう番組を作れるのが公共放送の存在意義。ところで裁判員陪審員)制度をどう思うかといえば国民の義務として就労者もこれに当たれば仕事を割き雇用者側も被雇用者が裁判にかかわることで本人に不利には一切できない筈だが実際には「それもあり」であろう。裁判にかかわり仕事が遅れ従来の本人への不評があるから解雇。裁判員本人は不当解雇とするが会社側は本人の裁判員としての職務とは全く関係ない解雇なりリストラだと主張。裁判員の不当解雇で提訴し解雇取消と慰謝料求め民事裁判。それを裁判員が裁き当然裁判員は明日は我が身と原告の主張認め慰謝料として会社側に慰謝料一億円の支払いを命じる判決。これなら下手に会社勤め続けるより裁判員になり会社と揉めたら裁判で退職金の他に慰謝料ゲット〜!と裁判員になりたい市民続出……あり得ぬ話。A氏より借用し松本盛雄『中国色とりどり』NNA読む。現役の外務省職員(在香港総領事館政策広報文化交流部長)で立場上あまり書きたいことも書けぬのでは?と思ったがなかなかどうして天安門事件や通訳にあたった中国政府要人のことも予想よか書きたいように書いている感じ。熱河の古蹟については戦前にこの保存に尽力した伊東忠太(本には伊藤忠太とあるが誤り?)の孫にあたる祐信氏の手書き原稿を自費出版した熱河古蹟の本を有したいたり、閑古鳥が郭公の別名であることを調べたりと多方面にわたり博学。一つ気になったこと。天安門事件で著者は邦人留学生の退避に携っているが北京語言学院で西洋人の学生も移送手段に空席があれば便乗認めるとしたが、その学生は移送ルートを聞いて、集合場所が市の東側にあるホテルで、そこから空港に向かうと知ったら「そこは最も危険な場所」と判断し自力で空港に向かうと決めたといふ。著者はその学生の対応に「危機管理の原点」「自分の身は自分で守る」ことの基本を見た、と書いている。確かにその通りだが、それ以前の問題として、この天安門事件での邦人保護については邦人保護したホテルが軍が北京に入る道筋にあり銃撃の真っ直中のような場所で何故そこを選んだのか当時もその危機対応の甘さが指摘されたこと。この西洋人ばかりか商社員など在北京の邦人でも「あそこはやばい」と集合しなかった人もあり。一般人ですら限られた情報で判断できる危機管理を外務省が出来なかったことが深刻。『対論昭和天皇』読了。保阪正康原武史は保阪のほうが二十三歳年上なのだがノンフィクション作家の還暦過ぎた保阪がかかり直感で話すのに四十になったばかりの原が確実なデータをもとに「まるで見てきたように」応えるのが面白い。興味深き論点を綴っていたら限りがないが、世間一般には大正天皇は精神的に病んでおり昭和天皇生物学者といった印象があるが原が『大正天皇みすず書房でも明らかにしているが大正天皇は実は脳を病むまではかなり常識的で気さくな人柄だが、この対談で昭和天皇は常識や感情、語彙に欠けるといった点が指摘される。また日中戦争開始からの親閲式などでの天皇の自らの意図的な帝国の元首たるべき行為なども二人は言及しているが、それを見て判断せば明らかに昭和天皇に戦争責任あり。対談で最も興味深かった点は昭和天皇と水戸との関わりで、一九二九年の陸軍特別大演習が茨城県であり水戸を訪れた天皇が突然、背広のまま白馬に乗って郊外を散歩。それが新聞に大々的に報じられる。戦後も四六年に水戸を訪れ「たのもしくは夜はあけそめぬ水戸の町うつ鎚の音も高く聞こえて」と詠み翌年正月の歌会始で御製となっている。原は昭和天皇の国体や三種の神器へのこだわりなどから、昭和天皇の会沢正志齋の水戸学的なところを指摘し、天皇と水戸との関わりを指摘。それはさておき昭和4年のこの白馬に跨がった昭和天皇のこの水戸でのパフォーマンスを保阪は農本主義橘孝三郎に結びつけ橘の愛郷塾や文化村を天皇は知っていて、それを見てまわったのではないか、と。橘の農本主義天皇に結びつき始め橘と井上日召らとの関係やその後の五・一五事件東久邇宮への関わりなどからの推論なのだが(橘孝三郎のこのへんのことについては小学からの同窓の畏友で橘孝三郎農本主義研究してきた郷里のJ君に話聞きたいところ)この保阪の推測に対して原は昭和天皇のこの白馬での散歩が五・一五事件での二年半前であり寧ろこの白馬に乗った天皇の写真が朝日新聞では三日後に掲載され、それが大洗(つまり井上日召)や愛郷塾の「連中」に大きな影響を与えたのではないか、と原が反論。保阪は成程と納得するこのやりとりの面白さ。まだ四十そこそこでいつも冷静な原がここで大洗や水戸の愛郷塾の関係者を「連中」と言ったことも興味深し。桜田門外の変から昭和のこの時期まで水戸の田舎者の血の気、何かあれば興奮して上京し躁ぐところ。保阪によればGHQが東京に総司令部置いて最初に訪れたのも水戸だそうで、これもGHQにしてみれば井伊大老血盟団事件の如く水戸の者ならGHQ殺〜!とやって来るかと思ったからか(笑)。
朝日新聞司馬遼太郎街道をゆく』の週刊誌発行記念してのシンポジウムあり。96年に亡くなり本日が命日。生前にもより増しての死後の司馬遼太郎の人気。井上ひさしの講演の内容をパロディ化すれば「この右でも左でもない司馬遼太郎の思想が週刊朝日でテストされ、多数の日本人を納得させるうえであまりにもすばらしいものであったために、日本人は精神的に司馬遼太郎に甘え、この司馬遼太郎の思想を中心とした社会と宗教とモラルをつくろうとしている」とでも言えようか。

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