富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月廿八日(日)快晴。雲一つなき絶好の快晴乍ら知人の代理で昼まで北角でお座敷あり。芸者勤めの辛さか。昨日の疲れあり午後帰宅して身辺の諸事片付けつつテレビで競馬観戦。ジャパンカップゼンノロブロイは当然の強さだが二着にナリタセンチュリー選び×。夕方中環に出てハリウッドロードの額縁屋に寄る。FCCでドライマティーニ二杯。恰度競馬最終レースにて咄嗟に駆けるが連複とトリオ狙えば一、三四着。パイプ煙草吸ってふと思い出すは十四年程前か当時の興銀香港支店にU氏といふ紳士ありお会いすると美味そうにパイプ吸われ余もパイプ嗜むではいたもののU氏がパイプも十年吸えば格好つくと言われまだまだ若輩と念じる。あれ以来香港にて邦人でパイプ吸ふ方はかつてのM総領事(その後田中外相時アジア局長)くらいか。レストランでは当然御法度であろうし酒場もパイプの煙をば芳香と思ふだけの素養ある酒場も少なし。紙煙草のそれも最近のマイルドセブン系の不味さに比べられず。昨晩も長沙の海岸より梅窩に戻るバス待ちの停留所にてT夫妻に香りの佳さ褒められる。実はパイプ煙草も余の好みの調合。読んだSCMP紙にインディペンデント紙からの特集記事で紐育マンハッタンのレストラン起業家Keith McNallyを語る。“Bright Lights, Gib City”といふMcNallyを主人公にした本の紹介記事だが“A recent October evening in New York: McNally is sitting in Odeon cradling his farst martini of the day.”といふ書き出しあり。何でもない一文だがぐっと引き寄せられ、続くは
"It's a shot of alchol in the vein that keeps you going" he says, grinning fondly around his lold hangout, the decor unchanged from his less solvent years in the early 80s, before a string of events -starting with his failed first marriage, and culminating four months after his mother's death- gave birth to his first hit.
と実に変哲ない、だがやはり紐育舞台にマンハッタンのダウンタウンでレストラン経営に成功する中年の男をそれを倫敦のインディペンデントの記者が書くと、と読ませる記事になる。SCMP紙など発行部数でいへば僅か数十万部の、だが貴重なのはインディペンデントであれ紐育タイムスであれルモンドであれ世界中の新聞の一流の特集記事は編集もせずにそのまま掲載できること。日本の新聞は世界中に特派員置いたところで外国の一流記事をそのまま載せる器量なし。実に嘆かわしき事。風邪気味のZ嬢にFCCのジンジャープティング。帰宅してGlenmorangie飲む。雑煮。『新撰組!』少し観る。若い俳優が頑張っている、といふそれ以上の印象なし。脚本の三谷幸喜氏が朝日新聞に随筆連載するが暫く前にこの番組の収録終わっての役者の打ち上げでの感無量の状況など饒舌に語り原作者だの映画なら監督が内幕をばそう易々と語っていいものかと感じる。ニュースで「若い女性が不審な男に」といふ表現あり。「性」がつけば丁寧で「男、女」は容疑者だの蔑称か。むかし男ありけり、はキョービのニュースなら男性なのか男なのか。それに比べ同じNHKの「おしゃれ工房」で茶器袋物、巾着袋の永井百合子女史の日本語。誰よりも丁寧な美しき日本語だが「初心者の方にはナントカがよかろうかと存じ上げます」と所詮突っ放したところがまた美しゅう存じ上げます。言葉の厳しさ。
▼中山文相「自虐的」歴史教科書に「慰安婦とか言葉減り良かった」と発言(朝日)。従軍慰安婦だの強制連行の言葉減れば民族や歴史に誇りもつ国家観培われようか。海外進出で「よいこともやった」と言われるのが鉄道建設だのインフラ整備では当然の事ながら産業開発での利潤が目的。中山某本人は自らの史観をば「中立的」と表現。ただ嗤わされるばかり。
新国劇俳優島田正吾氏逝去。享年九十八歳。歌舞伎座での歌右衛門との「建礼門院後白河法皇役がもう九年前。香港に住まい観劇逸す。歌舞伎といへば中村屋の十八代目勘三郎襲名披露来年三月の歌舞伎座で一條大蔵譚に盛綱陣屋。小学生の頃から芝居上手の勘九郎君であり敢えて勘三郎にならねばならぬのか。先代の勘三郎が三代目歌六の三男坊で長男が中村吉右衛門、次男が時蔵(当代の祖父)と名前の派生する家にて勘三郎も十七代目と賑やかだが明治初期に途絶えし名跡の復活。勘九郎君の今風にいえば平成中村座だのプロデューサとしての才覚思えば猿若勘三郎を祖とするといふ中村座の座元の名跡といふ意味で勘三郎襲名も意味もあろうが永山松竹の傘下に企画買われ座元とは言い難く辰之助松緑襲名といい松竹の兎に角襲名披露公演で賑わせようといふ襲名デフレなり。

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