富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月廿二日(月)Trailwalkerの時にだか左足首痛めたようで関西旅行中にとくに痛み昨日走っても下りでは痛みありQ姐の紹介にて湾仔洛克道の註册中医梁仲偉医師の診断請ふ。梁大夫は南華体育會だの香港華人蹴球聯誼會などの医事顧問にて多くのスポーツ選手ばかりかサラブレッドまでの打撲治療に当たる。湾仔の古い造りの医所訪れれば実際い治療に当たるは息子で弟子の錦宗なる師傳にて梁仲偉大夫すでに高齢で日常の診断には当たらぬことを知る。足首に膏薬塗り十分ほど薬塗り込むように按摩続け薬草の膏薬たっぷりの湿布をば貼る。余は香港でこの「跌打」の治療は初めて。何処の跌打の診療所もかなり盛況だが余はこれが中医と同じく保険対象外と誤解。晩に多少時間あったがジムで運動するわけにもいかず帰宅。ドライマティーニ二杯飲み鮭の粕漬焼、モツ煮などで夕餉。今晩も睡魔に襲われひたすら眠く転寝続けた挙句に廿二時には臥床。少し読み残しの金子光晴『どくろ杯』読了。上海から香港訪れた当時の「貝やぐらの街」はとくに興味深く読むが勝丸事件といふ実に恐ろしき話あり。南方に密航思い立った三人の娘貨物船勝丸に忍び込み何も知らずに隠れたは飲料水の水槽。次の港で水を張られ娘ら溺れ死に次第に崩れし肢体から濁った水や髪の毛が蛇口に出るようになり船員が水槽開けて真相解ったといふ次第。光晴の綴る香港は
なじみある香港の港に着いたのは朝方で、まだふかい霧のなかで、島全體が階段でゝきた山巓から麓まで、燈火が眠りからさめきれないで、寶石凾のやうに燦ゐて、夢現の境界をうたうとゝした恍惚をむさぼつてゐた。
と何とも見事な詩人の筆致。
短艇(ランチ)でエスプラネードに着く。芝生のみどりがあかるい。軒廊のあるしづかな通りを、船からあがつたばかりの三人は、幾日ぶりの定着感に足をたのしませながら、上海の煤でよごれた街とはうつて變つた洗ひあげたやうな卵黄色の、イギリス風なきれいな街をみてあるゐた。燈籠や、絹のうちはをうつてゐる土産物の店もあり、表からみえる生簀に、ふと股ぐらゐの大きな鰻が、いつぱいになつてとぐろを卷ゐてゐる廣東料理の店もあるが、あるゐてゆく石疉のうへに、浮浪人たちがごろ/?と寢てゐて、足のふみ場をさがしながらあるかねばならない。料亭のやうな間口のひろい日本旅館があつたが、手持ちの金の心細さをおもふと、休息することもためらはれた。街を左に出外れたとろこに、海をすぐ眼の前の廣場に沿ふて建つたうすぎたない旅館を見つけて、ともかくもそこに一泊することにした。島には眞水といふものが乏しく、わづかしか出ないふかい井戸に、朝晩、石油の空罐をさげた市民たちが、その水を汲みにきて列をつくつてゐる。從つて、水の値段が高價で、罐一杯の清水が十錢、二階まではこばせると廿錢、三階なら三十錢となり、山頂まで、何十百層の高所でくらすものたちは、一杯の水におびたゞしい錢を拂はねばならない。それに準じて一切の生活が高價で、おなじ支那でも上海とは變つて、ひどくゝらしにくい土地であることが、旅館の人のことばでわかつた。(略)
香港は花のやうにきれいなところではあるが、金でもなければゐるにいられない、八方ふさがりなぎりぎりな場所であつた。
と綴る。ところで光晴が金策で向おうとした広州の知人、欧陽予倩といふ人は欧陽應齋君の大叔父にでも当たるのか余は知らず。
サイレントウィットネス馬の馬主Archie da Silva氏の珍しい名前と風貌に、一瞬、風貌からはゾロアスター教のパールシー族かと察したが“da Silva”の名はポルトガル人でブラジルのF1ドライバー故セナもAryton Senna da Silvaといふ名。Archie da Silva氏は競馬場でレープロは『大勝』読むことも見逃さねば、この人がポルトガル系で漢字すら解す香港にかなり長く住まふ一族であること推測も易し。マカオに非ず香港のマイノリティとしてのポルトガル人にも詳しい歴史家高添勉君に今度尋ねてみるべきか。
▼ところで久が原のT君より金比羅さんなど大神社と「本庁」との関係につきいろいろ示唆あり。結局はカネに纏る話ながら歌舞伎も海老蔵襲名巴里公演には松竹LV間にいろいろあったとか。「鳥辺山心中」と「鏡獅子」が巴里の芝居好きにどれだけウケたか知る由もなし。

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