富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月九日(金)香港のとくに市街地史について地名の由来など話す機会あり。夕方知人の航空券入手する必要あり驚いたは全日空にて空港での発券業務しておらず支店窓口での発券要し(つまり午前便の場合前日夕刻までに発券済まさねばならず)香港/成田/千歳の往復に現金での購入求められクレジットカード不可(国内線部分との精算が云々とか)で小切手はお取引状況に応じて、といふところ。Z嬢も先日、日本航空にてジャパンレイルパス求めたところクレジットカードでの決済不可と云われ小切手の場合入金確認のため三日後にレイルパス渡すと云われる。不便この上なし。晩に尖沙咀の雲陽閣川菜館にてI夫妻、O君、それにZ嬢と来港中のバンコックY氏で晩餐。I君が十一月開催のトレイルウォーカーに「当選してしまい」O君とともに余も誘われ三年ぶり三度目の出場することに。その初会合=飲み会。雲陽閣の四川料理本格的ながら塩辛さきつし。尖沙咀の日系のSince 99といるクラブにH君のワイルドターキーの酒瓶キープされておりH君独逸東欧に居り本人不在で「それぢゃ飲んぢゃおう」といふことでその酒場。トレイル本番までの打ち合せ等。其処でジャズ演奏あり旧知のM君とY嬢がベースとピアノ弾く。成島柳北柳橋新誌』読む。
橋、柳を以て名と爲して一株の柳を植ゑず。舊地誌に云ふ、其の柳原の末に在るを以て命く焉と。而して橋の東南に一橋有り、傍に老柳一樹有り。人呼んで故柳橋と爲す。或ひと云く、其の橋柳有れば即ち往昔の柳橋にして、今の柳橋は即ち後に架して其の名を奪ふ者と。其の説地誌と齬す焉。按ずるに故柳橋の正稱は難波橋と曰ふ。而して知る者なし矣。彼此錯考するに即ち地誌の説當れるに似たり。夫れ柳橋の地は乃ち神田川の咽喉也。而して兩國橋と相ひ距る僅かに數十弓のみ。故に江都舟楫の利、其の地を以て第一と爲して、遊舫飛舸最も多しと爲す矣。其の南日本橋八町渠芝浦品川に赴く者、北淺草千住墨陀橋場に向ふ者、東は即ち本所深川柳島龜井戸の來往、西は即ち下谷本郷牛籠番街の出入、皆此を過ぎざるは無く、五街の娼肆に遊び、三塲の演劇を觀、及び探花泛月納涼賞雲の客も亦水路を此に取る。
とこの文章。「女郎の赤心(まこと)と鳥卵(たまご)の方形(しかく)と必ず無し焉」などといふ物言いといい柳北若干廿三歳とは畏入るばかり。何ゆえ今さら柳橋かといへば柳北の言葉藉れば「江都歌妓の多くして佳なる者この地(柳橋)を以て冠と為す。芳原品川も固より皆歌妓を貯ふ。然れども娼を以て主と為す」わけで「柳橋の妓、其の粧飾淡にして趣あり其の意気爽にして媚ず。世俗所謂神田上水を飲む江戸児の気象なる者にして、深川の余風を存する也」と。あらためて新誌読みふと気になるは「柳橋の正稱は難波橋」といふ記述にて難波橋露伴『水の東京』にもその名あるを知るが柳北も露伴も何故に東都の橋に「難波」と名付くかの由縁は語らず。大阪の難波にも新町の花街あり柳橋を上方の花街に見立てでもしたか余も知らず。「妓の家十の九は即ち日蓮宗也。祖師の力を借りて死後地獄に陥らんことを欲する而巳」といふは当世も未だ水商売にて日蓮信ずる者多し。柳北「お茶引き」の謂れなども語る。ふと思い出すは廿年も昔に余が仙台に在りし折に親しき女装酒場の女将が店に客参らず「お茶っ引き」の際に「檀家参り」と称し国分町の馴染みのバーなどに飲みに行くを見て、余は坊主の「檀家参り」は即ち檀家=客の家々を巡ることで何故に同業のバーに参って檀家参りかと疑問感じたがゲイバーの客の多くはバーが閉まって客連れて遊びに来るホステスにて、それならそのホステスらの勤めるバーに飲みに行くは確かに檀家参り。当時もう一つわからぬ符丁に「しとしとぴっちゃん」あり。「あのルミ子って娘、シトシトピッチャンなのよ」などとゲイボーイら語るを耳にして何かと思えば、中村敦夫氏の支持者に非ず、しとしとぴっちゃんと天井から水滴落ちる=ソープのソープ嬢と知りなるほどと納得。
▼先日、リュックで夏の思い出と綴ったが夏の思い出もう一つ。清原なつの女史の漫画「花岡ちゃんの夏休み」也。金沢大学だかの大学生の夏休みの風景。七十年代。
▼武蔵野のD君よりナヴェツネとプロ野球の問題につき余は元来野球に興味なく深刻な問題ともとらずのところD君曰く巨きな問題にて「ナベツネ問題の本質とは、ナベツネプロ野球という社会の一員であるにもかかわらず巨人軍を勝たせるという目的のためだけに己の属する社会の法や規範を枉げ、支配者として君臨し」「それを多くの人が黙認しているということ」と。「これは如何に日本人が法の支配という観念を理解せず公正や社会的正義といった価値に鈍感であるかを最も明確に物語る」もので「FA制度の導入、ドラフト廃止など度重なる「改革」はすべてただ巨人軍を勝たせるための制度的保証をルール化したものにすぎ」ず「日本プロ野球界は独占禁止法すら存在しない、つまりGHQ改革以前の半封建的後進資本主義の段階にとどまって」おり更に「日本のプロ野球にもいちおうコミッショナーという存在があり、これは本来文字通り全権を執行しうる唯一最高の権力者なのですが「権限がない」といってナベツネの作り出す現実をただ追認するのみなのは最高裁の「統治行為論」の滑稽なポンチ絵」に他ならず「球団のオーナーや社長がナベツネに追随し利権のおこぼれに預かろうと狂奔する様はブルジョアジーの独立なく国家に服従するカタチでのみ成長してきた日本の近代資本の醜態をなぞって」おり「なによりこうしたナベツネの文字通りファッショ権力を黙認し未だに「巨人ファン」であることをやめないというのが日本における「プロ野球ファン」の大半を占めているわけで」「こうした大衆こそがナベツネの権力を支え」それは「なぜならナベツネプロ野球界における権力のすべての源泉は巨人軍の放映権料から得られる莫大な収入に支えられているのであり、それはすなわちこうした大衆が巨人軍のナイター中継を好んで視聴している故に発生する利権」で「今回の合併にあたってはナベツネは「適者生存」というおなじみの聞き慣れた新自由主義のスローガンを口にして」いるが「強い球団が残り弱い球団は淘汰される」「それがナベツネの考えるプロ野球のあるべき姿」。しかし「マイクロソフトは他OSメーカーが潰れても困らないが巨人軍は戦う相手チームがいなくなったらどうやって商売するつもりか?」「そうしたらどうやらナベツネは日本のプロ野球を潰して生き残った巨人軍が他チームの有力選手をすべて吸収しアメリカのメジャーリーグへの参加を考えている」らしく「竹中平蔵が金融政策において行っていることとほとんど同一の構想」と。「ナベツネは日本の民主主義とともにプロ野球をも滅ぼしアメリカに売り渡そうとして」おり「これはきわめて今日的にビビッドな問題ではないでしょうか」とD君。御意。成程。こうした視野で見ればヤンキースタジアムに掲げた「讀賣新聞」の広告看板も意味を理解能ふか。

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