富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十六日(火)薄曇。香港IDカードのICチップ埋め込まれた新型カードへの交換のため銅鑼灣のElizabeth Houseにある申請所訪れる。インターネット等で十五分単位で予約完備し申請者の数に十分な施設と職員配置し受付受理、書類確認及び顔写真指紋撮影、審議官による内容確認まで廿分ほどで終了。ついに官憲に指紋まで管理されこのICカード化のおかげで一二年後までにはコンサートチケット購入から図書館での書籍借出しの記録まで個人生活に関る全ての情報がこのICカードに収る事実。もはや個人の秘匿権など対権力には微塵もなし。だが待ち時間にふと思ったことはこの余の日剰の場合、コンサートだの映画鑑賞から書籍の購読までICカードに収る以上の事実がすでに公開されていること(笑)。ざまぁみろ、権力による個人の管理以上に個人の思想はその度量が大きいのだ、だはははははははははははは……ってこれじゃ筒井康隆的開き直りか。ちなみに漢字名も香港IDに当然記載可なのだが必須ではなくローマ字のみで曾て申請した余はこの際記念にと「富柏村」なる名の記載を試みる。そんなの本名ぢゃないでしょう、と思うのは素人、漢字名は日本なら戸籍なり住民票に和字で記載されるが海外に出た場合の身分証明文件は旅券しかないわけで香港が漢字圏であろうと旅券に漢字名がないといふことは漢字名は自分で名告ったが勝ち。香港で香港ID申請の際に「聖徳太子」と書けば理論上は聖徳太子の名がローマ字の本名と並んで記載されることも可なのであり「富柏村」も問題ないのだが余の手書きはよく「富柏村」が「富柏林」と読まれることあり、つい念のため「林ぢゃなくて村ですよ、この字」と言ってしまったら「あ……」と職員が何か気づいたようで「あなた、もともとのIDカードで漢字名の記載がないですね。今回のここでの作業はあくまで既存の従来のカードをICカード化するだけの作業となっているわけで、もし漢字の名前を登記するのなら、別途、灣仔のImmigration局に出向いて申請して、ここでのICカード化は無料だけど、記載内容の変更の場合はHK$385(Ur覚え)かかって……」と説明あり。「どうせIC化するついでに漢字名もいれてくれてもいいじゃない」とダメ許で強請ったが「その権限がない」と公務員的お答え。今回は富柏村IDは失敗に終る。それにしてもこの申請所に集うどう見ても老若男女だがID紛失しての申請だの昨今の新参者除けばその殆どが余と同じが一つ違いの同年代と思ふと余も老年に入り久しいが「街中で会ったら絶対に同い年とは思えぬ」者多く顔の皺だの禿頭、白髪やすっかり日々の生業だの子育てに苦労続けた風体の者多し。その多くがやはり余と同じく様々な感慨で周囲の者を「あら、この人とアタシが同い年?」と思って見ている表情もまた可笑し。昏晩に上環の香港国際映画祭事務局訪れ今年の映画祭の通し券受取り。対応にあたった職員にこういふわけで申請して売り切れと言われその晩にインターネットでまだ購入できた事実告げるとまだまだ切符販売に改善点多しとの返事。昨年の余のトラブル故かカタログだのにかなり「通し券で見られるのは……」と注意書きあり。それだけ書けば十分だと思ふが今年は通し券購入の際に同意書を見せられ、そこにも「通し券で見られるのは……」から始まり満席の場合の措置だの上映映画変更の際の細目だのとかなり記載多くその同意書に署名させて同意書の複写までくれる徹底ぶり。通し券(パス)のラミネート加工終るまで時間あり上環の小巷久々に散歩して、帰宅して夕食だといふのについ畢街の生記にて及第粥食す。上着羽織って粥食すとさすがに汗ばむ陽気。通し券受取りに戻り上環より始発の地下鉄に乗りさすがにここ数日の疲れか迂闊にも寝入り駅を二つ乗り過ごしタクシーで帰宅。かなり久々に自宅にて晩飯。雑誌『世界』の特集「日の丸君が代戒厳令」読む。これを読んでいるだけでも「偏向」か(笑)。曾ては管理教育は千葉と愛知、国史教育は福岡がひどかったが今は何よりも東京都の戒厳ぶりは秀逸。岩波書店より『空疎な小皇帝「石原慎太郎」という問題』を出したジャーナリスト斎藤貴雄氏の文章によれば、2003年10月23日の都教委通達「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国家斉唱の実施について」での不服従の教員に対する行政処分は都立高校教員八名、都立養護学校教員二名が二月中旬の午後都庁第二庁舎27階を「校長に連れられて」処分受ける(まるで親が万引きだの不良少年連れたが如き光景ながら重要なことはいくら言ったところで反省もせぬ不良少年の更正を願うのではなく親=校長への圧力以外の何物でもなし)。卒業式には都教委の職員が「来賓」として出席し教員の国歌斉唱ぶりなど監視、反抗的とされた教員は式の後に校長室で指導主事らの事情聴取受け、式の途中で舞台の袖へと連行されたり、都教委職員同席した卒業式予行演習で国歌斉唱の「声が小さい!、もっと大きな声で」と呶鳴りつけた校長もおり(この指導ぶりが好評価に繋がるのだろうが)、君が代伴奏拒否した音楽教師を「だったら出て行け!」と叱り、大田区の某高校では卒業式のあとの講演会で星条旗掲揚され米国国歌演奏され生徒起立!とされたのは講演に「戦災孤児から身を起し渡米して全米州教育長長官連合協議会国際局日本担当代表と外務省認可の財団法人国際文化フォーラムで米国駐在代表連絡員」務める伊藤幸男なる方が礼儀だの国への誇りだのを解いたからだそうで、この学校の校長は卒業式の式辞でも「一剣報国」と書いた手ぬぐいを生徒に見せて「一人ひとりのたゆまぬ努力が社会貢献につながる」と生徒に訓辞垂れ、要注意教員のいる学校には卒業式数日前より都教委職員が駐在してその教員の監視に当り、養護学校では重度の障害の生徒がいるのに「国歌斉唱の際は子どもを抱えて起立せよ」と指示し「落としたらどうすのだ」といふ抵抗にあい「抱えたまま正坐」で妥協、国歌斉唱中に尿意催した子をトイレに連れて行った教員に事情聴取した校長まであり、壇上から教師監視用ビデオ撮影や、壇上に生徒上がれぬ養護学校では百万単位の特別予算がついて演台の高さ低くするなりスロープまでつけてでも従来のフロア対面式から国旗掲揚された壇上形式の式の実施にこだわる学校もあり、ある養護学校では教師の「子どもを守りましょう」という意見に校長曰く「そのために通達通りにやるんです」といふ返答は「都教委に背けば引っかき回されて犠牲になるのは子どもたちですよ」と。……どうだろうか、これが日本の首都で行われている二十一世紀の教育。この「教育」からいったい何が生れるのか。多くの都民はそれが不毛であることはわかっているのだが、それを敢えて反対も拒否もせぬことの問題。だいたいあの知事を三百万都民が選んだのだから、自らが選んだ都知事のこの方向性に批判ももてようはずなかろうが……。「出口の見えない暗闇で子どもたちが悲痛な叫びをあげている現実の中で教育現場に「日の丸・君が代」を持ち込めば、道徳教育を徹底すれば、日本人としての自覚や、国際協調の精神が培われると思っている」「教師たちの分裂の材料を押しつけている国(東京都と置き換えられるが)に対して、将来の希望さえ示してくれない国に対して、どうやって信頼や誇りを持てというのか」といふ義家弘介先生の言葉をあらためて読み入る。それにしてもなんでこんな社会になったのだろうか……。ちなみに教育基本法改正目論む「日本の教育改革」有識者懇談会のメンバーは目立つところで抜き出せば(敬称略)顧問に聖路加病院の長寿がどうのこうのの日野原重明瀬島龍三、会長は西澤潤一首都大学東京総長、代表委員に慶応の石川忠雄と帰還兵小野田寛郎、第四部会に水戸黄門里見浩太郎)、学習院篠沢秀夫、故・春風亭本職の落語はイマイチ柳昇、俳優津川雅彦に「作る会」西尾幹二、第三部会に広中ノーベル平祐、仮面ライダー1号(藤岡弘)、第二部会に上智大の渡部昇一、協力委員に写真屋浅井慎平水野晴郎先生にエジプトの吉村作治……と色物多くこれのどこが有識者なのだろうか。M先生がなぜ教育基本法改正なのか理解できぬが「教育はやっぱり男女別学で警察学校や軍隊のような寄宿制で制服着せて……」といふご趣味ゆへだろうか。こんな「終っちゃった」人と「本職じゃ喰えない」人ばかり集めた有識者懇談会で教育基本法の改正など議論してしまふとは……この人たちになんの罪もなくそれを放置する側に重大な責任と過失あり。