富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十四日(日)曇。昨晩の羅大佑の演奏会の追記。五佰(呉俊霖)がゲスト出演したこと喜ぶ。五佰は台湾代表するロック歌手でありギタリストとしても秀逸。舞台でのベッシャリが全くもって下手なのも共感。五佰&China Blueで新作「涙橋」も秀作だそうだが未聴。五佰と羅大佑の共演といふのは見事。本日。何かとたまった新聞だの手許の資料など読む。昼すぎに近所の市場に生鮮買出し。週刊読書人(三月十二日号)の姜信子とテッサ森巣鈴木の対談秀逸。姜女史のサハリンに住む日本をアイデンティティの故郷とする韓人の話も興味深いがテッサ女史の語る日本で「赤とんぼ」の歌聴いた時に蘇格蘭民謡のように聞こえ明治の頃の「歌と鉄道」の関係にについてテッサ女史は鉄道技師や宣教師として日本訪れた蘇格蘭人多いのは十九世紀に入り蘇格蘭の産業化進み教育程度も高くなったものの当時の英国にはある程度の差別がまだあり蘇格蘭人の特に科学技術関係学んだ者が多く海外にて技術職として従事、日本にも蘇格蘭文化の介入はそうした歴史あり、と。山田耕筰とか『噂の真相』的に突っ込むと興味深いはずなのだが。ふと幼稚園の園長先生であったシスターが山田耕筰のお嬢さんだったこと彷彿。午後遅くZ嬢と裏山にのぼり歩こうと参ればいつもの決まったコースより更に上手に入る徑ありZ嬢が探検所望し介れば獣道といふには烏滸がましきかなり手入れされた小径あり進めば花果山と名付けられた谷あひの休憩地あり。附近の好き者の老人たちの為業よる謂わば秘密基地であるが泉流れおちた処に清水が湛ひ木陰に憩ふ場所あり。風情あること言葉に表すも難し。小さな看板に何れの者もこの場に憩うを許すが決してこの場を汚さぬことと警文あり。いつも同じ小径ばかり走りこのような山里があるとは今日まで知らず。更にMount Parkerの方へと介り静寂なる裕かな自然の中を歩けば奇岩・将軍岩を望み耀東邨の公団住宅地へと背筋寒くなるほどの急な崖の階段を下りる。耀東邨は香港の住宅公団の記念碑的な大型プロジェクトにて曾て大陸よりの罹災者のバラック繁る丘陵にバラック撤去し大型の集合団地をば建設。だが公共団地といふにはかなり余裕ある非密集の建て具合に緑多く雀だの小鳥囀り公共空間の演出は民間のデベロッパーも見習うべきほどの秀作。市場だの日常生活用品扱う店の並ぶ商場を抜けてエスカレータで下れば西湾側、Shaukeiwanの地下鉄站にも繋がり便利至極。ShaukeiwanのWet Marketにて生花だの晩食に帆立貝だの購ひ帰宅。ミニバスに乗り帰宅の車中、西湾河の市街にて潮州風味の鹵水鴨でかなり評判となった「順興」が最近の家禽ウイルスにてどうしているかと眺むれば本店も近所に開いた二号店も昨今の事情に由り、と暫時休業の張り紙あり。Z嬢の話では先々週だかには開店休業の状態でも店は開いていた、と。さすがに鴨だの鵝の仕入れに窮し休業か。生業といふものの難しさ。帰宅して風呂に半身浴しつつドライマティーニ飲み好きなジャズ聴いてBusiness Traveler誌など読むは至極。午後六時過ぎテレビつけると中央電視台全人代と形骸化せし全国政治協商会議の両大会終えて温家宝首相の記者会見実況中継。NHKの記者が「自分の中国語での温首相への質問が生中継で世界中に流れている」とかなり緊張して日中関係について問うたところから中継見たが良好なる日中関係のなかで唯一の問題は政府首脳の一部に(って首相小泉三世本人なのだが)靖国神社「頻繁に」参拝するなど中日関係を害う動きありと指摘あり。日本側にも言い分あろうが中国政府の度量を思えば「頻繁に」の一言の重要性をどれだけ日本側が理解できるか、が大切。日本の「国情」は理解できているのであり例えば首相就任後に一度だけ靖国に参拝する程度なら許容なのである。だが「小泉的に」八月十五日の数日前だの正月だのに抜き打ち的に参拝するその「卑怯さ」が中国政府にすれば納得いかぬといふこと。だがこの「頻繁に」の一言をこの記者会見に臨んだ日本の新聞の北京特派員がどこまで把握できるか、明日の新聞の報道内容が興味深いが恐らくそこまで理解できてはおらぬであろう。それにしてもこの首相記者会見に集まる世界各地からの記者の数=世界の注目度。永田町にて福田二世の記者会見に集まる記者の数との明らかなる違い。つまり世界のどれだけがどこに視線を向けているか、といふこと。この国力の違いを日本は真摯に理解すべき。それにしても温首相のこの記者会見の仕切りぶりの見事さ。明らかに取材者を「操る」力量。これが日本の首相にあるかといえば「ない」といふこと。知力的には宮澤喜一君が最後、政治力的には田中角栄君が最後、総論的には中曽根大勲位が最後であろう。実は非常に大切なことは、この温首相の記者会見終ったあとの政治・外交専門家による座談会が中央電視台第4台で引き続いたのだが予想以上に専門家の議論が中日関係であること。これは重要。中国にとって日本とは何か、といふことが残念ながら日本側が理解できておらず。橘樸(たちばなしらき)であるとか財界でいへば岡崎嘉平太君あたり迄はこの「中国にとっての日本とは何か」が理解できていたのだが今の小泉だの石原だの福田、安倍、石破といった小僧どもにはこの中華帝国に精神的に対峙するだけの度量といふものがないことが今日の日本の最も悲しき現実。人参のサラダ、韮のKirsch、帆立貝ソテー、羊肉chopで葡萄酒飲み晩餐。NHKスペシャルで「米兵たちのイラク」なる番組見る。NHKらしいスタンスで米軍のイラク征伐に対して否定的なのか肯定的なのか非常に微妙な要するに視聴者がどちらの側でも何らかの感銘得られる作りは見事(嗤)。ユタ州の田舎の州兵が突然イラク派兵の大統領令を受けてデューク定家の如き嘘っぽい司令官の下で実はイラクが何処にあるかも分からぬ儘に「我々はイラクの人々を自由のもとに解放するのだ!」などと叫びつつ即席の訓練でイラクに派兵される。そのユタの田舎者の純情そうな州兵は「自分の身が襲われないかぎり人を襲ってはならない」などと気取って宣ふがイラクはその自分の身が自分では理解不可能の米軍に対する敵対心で襲われるといふ現実を全く理解できておらず、結局は「自分の身が襲われた」といふことだけを理由にイラク人を襲う側に変身する事実。無知ゆへの暴力。その若い兵隊を送り出す両親は「世界には果すべき役割を果さない者がいる」などと宣ふが実際には「世の中には果さなくてもいい役割を果たす者がいる」ことが迷惑なのであって、正義感だの自由だのと言いつつ結局は父親が第二次世界大戦に従軍し叔父が朝鮮戦争、自らはベトナム戦争で息子がアフガニスタンだのイラクだのと征伐に加わり結局は軍人の恵まれた恩給だので裕福に暮らす彼ら。その無知に怒りより憫れみを感じるばかり。週刊読書人(三月十九日号)で立川広末氏といふ評論家を知る。競馬の著作多いが落語も『談志の迷宮、志ん朝の闇』といふ本の書評読んで「これは面白い」と、談志の「富久」すら聞いておらぬのに落語論読んでいいのか、と思いつつ。
▼朝日の広告に、天后の紅寿司(あかずし)だの中環の築地礼寿司(れいずし)に続く奇妙な名の日本料理店としてホンハムの李嘉誠の、江沢民も来港の折に泊る「だけ」で名を馳せるハーバープラザホテルに「千鶴」なる日本料理屋明日開店と広告あり。「千鶴」は「ちづる」にあらず「せんづる」と、googleも千鶴を「せんづる」と読むは僅かに七件、「せんづる」では自慰意味する「千摺り」の名詞形かとすら思ふが「千摺り」の名詞形は「せんずり」の筈で、どうであれ「せんづる」はどう考えても下手に日本語解す者が「千鶴」を無理な訓読みで「せん」と「つる」にしただけだろうか。このホテルの日本料理屋といへば96年だかのホテル開業の折に名も忘れたが李嘉誠の愚息の好みで炉端焼きの店あり。見た目本的なる炉端だったが、炉端の中にいる焼き方の者がその炉端に入るのに炉端の海鮮だの野菜の並ぶ棚を土足で上がるの見て愕然とした記憶あり。それ以来一度も再来せず。その店閉じてのこの「せんづる」の開業か……。アジア代表する香港の億万長者の李嘉誠所有のホテルでこの様。所詮、成金の足掻きの如し。
▼昨日読んだ『噂の真相』で永江朗による辺見庸のインタビューで辺見庸曰く「最も唾棄すべき存在は一見体制批判派のようなポーズをとりながらメディア漬けになっている連中」として典型として筑紫哲也田原総一朗を挙げ「彼らみたいのが実は権力」「メディアを自己対象化できていない知的にも弱い連中」で「絵に描いたような右派論客よりももっとひどい」と酷評。田原総一朗については何度か余も日剰で呆れぶりに言及したが筑紫先生で思い出すは九七年の香港返還の六月末、香港からの返還中継に来港せし筑紫先生らTBSのクルーを二十九日だか三十日の夕方にBank of America Towerの横でお見受け。取材の車が来ないのか何か段取り悪く(業界ではよくあることだが)明らかに筑紫先生ご機嫌斜めで周囲のスタッフに走る緊張は並大抵に非ず。その緊張が香港返還の緊張より更に大なることスタッフの表情より余の如き通りがかりの部外者にも理解できるほど。結局この先生は先生自身が権威であり地球の出来事もこの人中心に回っているのだな、と。
▼昨年のSARS疫禍にて香港政府の責任者である衛生福利及食物局局長楊永強君昨日(昨年の今日二十九名の市民の感染あり)の立法会SARS調査委にて昨年の三月「香港で肺炎は爆発i大量感染)していない」と公言したのは毎月千五百から二千名の感染者ある一般の肺炎のことでARSについてに非ずと釈明。戯け。よくもまぁ……。通常の神経であれば失職せずとも辞職して罪を賠ふとか考えもしようものが局長自らの権限下に据えた調査委員会での報告受けただけで今日まで局長の椅子に留まる。余なら自殺すら企図するかも。
網野善彦氏の逝去にあたり備忘。(1)日本民族は単一でもなければ同質の文化を保持してきたわけでもなく特に東国と西国ではかなり文化的に異質であること。(2)田稲作と農耕の民族を中心とする文化が日本文化の歴史的に一貫した特徴であったわけではなく手工業者や商人、漁業・海上輸送に従事する漁民、狩猟・木工などで生計を営む山民、それに後世に非人・穢多などと差別された人々の文化への寄与も無視できない(この表現にはかなり疑問あり。文化=高等なる偏見的背景あり?)、(3)国内は勿論国外まで人間の交通・移動はかなり活発に行われており閉鎖的な社会ではなかったこと。(4)下人・所従という隷属民以外の平民・職人たちは従来考えられていたより自由度が高く隷属民の人身支配に対して抵抗する社会的な観念も強かった、と(以上週刊読書人に於る山本幸司よりの引用)。