富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月二十五日(金)快晴。このところ煩事多くつい喫煙していたがまた断つ。Z嬢と湾仔藝術中心にて昏時待ち合わせ藝術中心の六階だかにある食堂。不味さ名を馳せていたが雅厨なる名前となり梃子入れしたらしく南の味覚取り入れ評判だそうな。お薦めのNonya Laksa食す。確かに本格的なラクサ、麺の独得のコシと臭み、スープのコクも本場の味「だが」たかだかラクサにHK$70は高すぎる。見た目よかずっとコストと手間かかったラクサなのは認めるが所詮ラクサラクサ、HK$70はあるまひ。しかもセルフサービスの食堂で、である。今晩から小津安二郎生誕百周年の記念上映あり。まずは昭和10年の六代目(菊五郎)の鏡獅子。政府の文化交流だかのために当時依頼あり松竹が撮った歌舞伎紹介短編映画で、六代目の楽屋での姿の撮り方に確かに小津らしいローアングルがある程度で、鏡獅子ぢたいは固定カメラでじっくりと追ってはいるものの、寧ろ六代目がカメラのフレームから出ないように意識している気がするが。25分の短編で鏡獅子の踊りは15分、であるからかなり無理な短縮をしており鏡獅子という九代目(団十郎)のこれが余りに雑な編集をされてしまっており作品として芸術性に堪ええるか、といへば疑問なのだが、六代目の51歳という円熟した当時の鏡獅子が映像に残っている、それが今も見れるということだけでもどれだけ有難いことか。六代目の鏡獅子といへば国立劇場のロビーに大きな六代目の鏡獅子の像があり、これに圧倒されるが、実はこの小津の映画を見たのは余は今晩が初めて=六代目の舞台を初めて動画で見た、といふこと。子どもの頃に祖母が「六代目、六代目」と時々口にして「梅幸の義父だよ」と教えてくれたが書籍にこの名人のことは数多書かれており、いったいどれくらい名人だったのか、今晩この鏡獅子見て、弥生の踊りは残念ながらこのフィルムからは良さ見えぬが、獅子になってからのその動きの機敏さ、鋭さは他の誰の鏡獅子でも見たことなき、本当に何か憑いたのでは?と思うほど。圧倒される。続けて『淑女は何を忘れたか』1937年。これも初めて。じつは昭和12年といふかなり焦臭い時代なのだが大学で医学教授する夫とその有閑夫人、大阪から現れたモダンな姪っ子、一見平凡な作品に見えるが会話もだが、何よりもその役者らがとる構図の中で奇妙な立ち位置、動きの非現実さを見ていると、小津という監督の一瞬平凡な生活描写のようでいて、こんな奇妙な非現実的な世界描いており、それは「異常」であり、こんなもの映画でしか描けず、そういう意味で森繁の小津非難は少なくても戦前は当っていなかったはず、と思ふ。会話のアバンチュール、動きの素っ頓狂さ。続けて『東京物語』昭和28年、もう今更語る必要ない作品だかいったい何度見てるか。映画館で三度目、VCDでもケーブルテレビでも看ているはず。だが今でもまだ新たな発見のシーンなどあり。しかも35mmで初めて看ると、原節子の住むアパートの廊下のゴミだの銀座松屋の建物の装飾だの、それぞれの家々の細かな置物だの、笠智衆の千鳥足の妙までよく映っていること。香港での上演は何年に一度かのその度に若い観客があふれ、この独得の世界に終演後拍手すら起きる。芸術系志す若者にが「こんな物語が映画になる」という点では必見の教材なのかもしれないし、小津を見ても今後何かに役立つか、という批判もあろう。が、尾道の船の動きまでが絶妙な位置で桟橋の屋根と埠頭の間にはさまれた狭い海のなかをすーっと航海しているような、そんなシーンだけでもやはり敬服。ところで有名なローアングル、あれは座敷で猫の視線から見ると人間といふのは奇妙な動きばかりしているのかも知れぬ。
▼教育統籌局は週明け28日の休校措置解除は小学校まで予定していたが、昨日、中学のみにて小学校以下依然として休校措置延長、と決定。これに反発するのはインター校、何故かといえば水曜日にインター校代表集めた教統局の会議にて週明けの開校を告げており各校それに従い開校準備しており、翌日の突然の変節に唖然。結果的に今日、インター校は独自の判断で開校決定できる、という通達あったそうな。分け隔てなくしているようで実はこのダブルスタンダードあり。マスク着用にしても地元校には「必須」としつつ英文では着用が望ましい。消毒まで徹底している地元校に対してインター校ではマスク着用など個人の判断の範疇なのか着用率かなり低く、それについて当局の指導もなし。治外法権か。
▼昨日の信報に興味深き「非典型肺炎死亡率之謎」なる文章あり。筆者は科技大の資訊與系統管理学系助教授の黄寶誠氏。香港政府の高官、例えば4月16日に楊局長は1,268名の患者中の死亡者が68名によりこの疫禍の死亡率を5%と宣った。が、その前日に医院管理局の高官は死亡率が10〜20%と語っており、どうしてこの僅か一日で5%も死亡率が低くなり、これはつまり減少率でいえば50〜75%、つまり20日もあれば疫禍解消させるようなもの。そんなはずがなくいったい何があったのか、といえば、楊局長は1,268名の感染者中61名の死亡でもって5%と弾いたが、1,268名中完治して退院したのは257名、残りの950名はまだ治療中。もし死亡率が5%と言うのなら回復率は95%でなければならず、つまり治療中の950名も治癒して、初めて死亡率5%が確証される。回復率がそんなに高いわけなく、では死亡率はどう計算されるべきか。硬貨を例にすれば、1,268枚の硬貨を用意、表が数字、裏が絵柄である。この硬貨を投げて絵柄の出る確率をPとする。もし318枚の硬貨を投げて61枚絵柄が表になった場合、その割合は19%となる。で、残りの950枚を投げたとしたら絵柄が表になる確率はおよそ19%に近いはず。その標準誤差は2%。これを肺炎に当てはめると、318という数字は治療結果の出た患者の総数で、うち61名が死亡し257名が治癒。硬貨で絵柄といったのは肺炎での死亡であり、つまり結果の出た感染者の19%が死亡していることになる。およそ5名のうち1名が死亡ということ。事実、4月8日から21日までの感染者数を見ていくと死亡率は18%、完治は82%となる、と。