富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月廿五日(月)晴。昼すぎに携帯に電話あり誰かと思えばS氏は長年中環閣麟街にてRolexの骨 董時計など扱った人にて丁度余が半山区干徳道より引っ越した直後に店を畳む。引っ越して久しぶりに閣麟街を通りかかった折にシャッター降りて移転先の表示 もなく不景気にては骨董品の腕時計も売れぬかと思いそれまでたった一度だけ1956年製のローレックスを購っただけで修理からガラス磨きまで何でも無償に てやってくれていた主人ともこれで会えぬかと覚悟していたものをご主人電話にて不況にて店は畳んだものの時計修理の道具だの部品はきちんと保管しており 「景気がよくなってまた店を再開できるだろう頃までは」お得意や知古の客には電話一本もらえば自分が扱った時計の面倒を見る、と。ありがたきこと。何か手 伝えることがあればと尋ねれば日本人の15年来のお得意の女性がおり来港のたびに骨董時計を購ってくれ日本でも何度か会っているが言葉の不自由もあり代り に電話してくれぬか、とお易い御用にて電話すれば先方もこのS氏に電話したものの応答なく心配していた、とその女性も安堵。黄昏に昭和の初めに香港で生ま れ昭和16年まで湾仔に育ったNさんといふ方にお会いしてお話を聞く機会あり。偶然お会いしたが当時の湾仔の様子、Kennedy Rdにあった美しい洋館の国民学校(現在のSt. Paul小学校)への通学の様子、情勢悪化での湾仔に あった旅館千登勢での非難生活など。南京陥落にてこれで不安定で物騒な世の中は平和になる、と当時は思ったといふ一言が印象的。その南京陥落が引き金と なって更に泥沼の戦争に至ったのが現実。ただしN氏にしてみれば、どうして当時の香港にて日本人の子供までが狙われるほど反日感情が高ぶっていたのかは理 解できず。物騒であることの要因が日本にあったのではなく寧ろ日本人は被害者のように見えるのも、当時、その環境にあったからこその由か。晩に鵝頸橋近く の割烹遊喜にて旧知のF氏がZ嬢招かれ余は末席に与る。零余子(むかご)、牡蠣酢、生湯葉の山葵餡掛など で八海山、男山を酌す。上品な店では酒飲み三人でも六合と控えめにて一つ通りを隔てた居酒屋卯佐木。もう開業されて二年だが開業当時は失礼ながら単調だっ た味つけも煮込み、鳥肉の薩摩揚、酒盗など極めて佳き味にて菊正宗をコップ酒。珍しく深夜まで旨い酒を飲む。卯佐木にてF氏と懇意の方に会いジャパンカッ プにてDettoriにHK$500単勝で賭けて大当たり、と。Dettoriの名前もDettoriの輝かしい戦歴もご存知なく、ただ1番が来るかも? と新聞にあっただけ、と。競馬とはさういふものかもしれない。
▼数日前の『信報』に劉健威が最近香港にて流行る私房菜(飲食店営業許可 とらぬ自宅型レストラン)について書いている。この人自身がグルメにて料理屋の味に飽き足らず自ら黄大門Yellow Gateなる私房菜を始めたのが評判となり今日の私房菜ブームの仕掛人のような立場。百軒ほどが営業しているといい政府も流石に放任できず避難経路の確 保、座席数の限定(18席)、営業時間は夜の三時間のみ、といった規制を敷いてこういった私家菜店の拡大 に歯止めをかけようとしている。劉健威、営業する者の立場からみて、あくまでも家の台所で作ることを前提とすれば客は10数人が限界、客単価HK$300 として酒もいれて一晩の収入はHK$5,000、月に20日営業したとして月HK$10萬、賃貸と水道光熱費、調理手伝い兼給仕の人件費、食材の仕入れが 各々HK$20,000として主厨兼経営者のもとにHK$40,000残る勘定。著名な高級料理屋の主厨で給料がHK$35,000ほどであることを思え ば私家菜の主厨兼経営者恵まれている、といえなくもなし。ただし資金繰りなどは厳しく当然のことながら安定した来客が続くことが条件。