富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月十九日(火)雨。紀伊国屋より大西巨人神聖喜劇』、フーコーの1974-75年の College de Franceでの講義録『異常者たち』など届き、或る文庫本を一読し好事家築地H君なら興趣ありかと思い早速郵送す。
香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書La clef)読む。「ニッポン、ニッポン」と盛り上がったサッカーW杯であるとか愛子様御誕生であるとかで「キャア」と自分でもうまく言語化できずに歓声を 上げるヤングたち。ここ数年で大きなスポーツイベントの開会式どころか「札幌の巨人広島戦ですら」アイドルが君が代独唱。それを故ナンシー関は「少なくと も最近の「スポーツイベントでの国歌斉唱は」が着地するのは、だれがどう歌ったから「(スポーツの)戦意高揚」や「心をひとつに」効果がどれだけ上がった ではなく、とんちんかんの度合いの高低でないかと思う。誰が歌っても「(笑)」から免れない。工藤静香に限らず、郷ひろみだろうが、つのだ☆ひろだろう が」と観察しているが、すっかりこの君が代が定着。W杯の日の丸の旗が神道青年全国協議会によって小中学校や幼稚園に協力求め作られたことの政治的背景な ど関係なき、この「屈託のなさ」。日本語ブーム。こういった「ぷちナショナリズム」を香山リカは米国や韓国といった国威と直結した強烈なナショナリズムと も、フランスのルペン台頭にみられる左翼知識人に対する幻滅による保守回帰とも異なる、と見る。これは何処に源泉があるのか。まずエディプス神話の崩壊。 長嶋一茂小泉孝太郎に見られる屈託なき父親への尊敬。しかもその名声に反発するどころかそれをしっかり利用する。次にコンプレクスや複雑な心のプロセ ス、歴史的因果関係など面倒臭いものはすべて「切り離し」ができてしまうこと。そこには「屈託のなさ」だけが残る。更にそうした一茂や孝太郎に見られる、 政治家の大部分も二世議員で然り、そうした者たちはただただ有利で他は不利となる機会不平等がしっかりと根づいてしまった。こうした階層化社会では何か発 散できるものが欲しいということ。それで旧来は革新が強いはずの都市部(しかも首都)において何か停滞を打破してくれそうな石原が支持され、 YOSAKOIソーラン節とか各地で踊りなど言葉にならない何かの体言が盛んになり、体制に懐疑的であるはずの若者が君が代を歌い日の丸を振ることで日本 を応援し「なんだ実は弱くなんかないじゃない」とスカッとできる、そういった社会。劇作家の山崎正和はW杯の亢奮も「民族や国家単位の約束はいわば芝居の 約束事であり、観客は承知のうえで「愛国ごっこ」を面白がって演じていた」といふが余思うに「演じる」といえば客観的であるが役者が「役になりきる」って ことの怖さを山崎は理解できていない、だから「山崎の芝居もつまらない」のだけど(笑)。
▼築地H君の報せによれば朝日の昨日の夕刊に「横浜中華街が「お台場のような」おしゃれなスポットめざして 改装リニューアル」とかいう記事あり、と。「雑然」とした電線電柱を地下化し、「ダサい」といわれる朱塗りの街路灯もカゲもカタチもなくし車道と歩道を一 体化した高級敷石の舗装でバリアフリー?とか。H君の言う通り「致命的な勘違い」以外の何ものでもなし。中華街など、あの周囲から乖離したキッチュさ「だ け」がいいのであり、それをキレイにして誰が參ろうものか。
▼同じくH君が石原慎太郎の「日本よ」という本の書評「石原知事の研ぎ澄まされた、ある時は荒削りな発言に は魂がある。政治家本来の姿だ」を読み、研ぎ澄まされてるのか、荒削りなのか、いったいどっちなんだ?、と(笑)。よくわからないが「政治家としてはとも かく、言葉を扱うことを生業とする作家としてはイカガなものかと」とH君指摘するが、石原にしてみたら生業は小説家であって「政治的言動は言葉だから粗削 りでいいんだよ、キミはわかってないなぁ」とか言いそうな予感。
▼益新飯店の先週金曜日の閉業を報じる新 聞をアップ。