富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月十六日(土)雨。朝刊(蘋果日報)にて銅鑼湾利舞台の益新飯店昨晩閉業するを知る。三十年來の 老舗にて同じ銅鑼湾の駱克道にて営んでいたがバブル華やかなる95年に現在の利舞台に移り店の内装こそ他に比べれば地味なもののボルドーの銘酒の空瓶が並 び景気よきこと一晩に卓が二回どころか三回転することもあり。余は駱克道の頃10年もまえに偶然訪れし際そこで旧知のM氏と遇い店の給仕頭紹介されたのが 縁で贔屓とし海外から客あらば客のご指名ないかぎりこの店を使ひ殊に客多き97年の返還前は月に二、三度といふこともあり。日剩を捲れば(この富柏村ゑぶ さひとも出来て丁度二年となると知る)昨年一年に八度この益新に食し今年は外食かなり減ったこともあり僅か四度。それでも仕事の接待あるわけでもなきこと 考えれば頻繁。店の経理曰く95年の移転時は売上げは伸びるといふ前提ありここ数年の不況にてかつてHK$3,000使っていた客がHK$1,000しか 落とさなくなりビル家主側と家賃折衝もしたが下りあわず最近は毎月HK$20萬ほどの赤字続き、と。確かに晩8時くらいには賑わうが往時の如く九時、十時 に訪れる客あらず九時すぎると閑散としていたのも事実。十年来贔屓にして店の給仕にまで顔覚えられ訪れれば名を言うまでもなく卓に案内されし店をなくすは 寂しきこと限りなし。Z嬢嬢昼頃、この益新を訪れ懇意の給仕頭C氏にせめてお別れを言い記念にメニューでもいただければ、店は卓や椅子と橙色の卓布などあ るのみで他に何もなし。厨房の職人が一人いたのみ、と。昨晩まで営業しており、けして負債の抵当にと店の財すべて押さえられ運び出されたわけでもなく店の 記念に残るものは皆にて持ち帰ったかと察す。余は午後、馬主C氏の多利高12月15日の香港国際レース参戦を賭けC氏に招かれ沙田競馬場。予想などしてい たら昼となり慌ててタクシーにてHung Homへと向かうつもりが運転手に土曜の昼に中央隧道渋滞ひどければ東隧道通ると言われ東隧通るならいっそのこと大老山隧道潜り競馬場までタクシー。馬主 ボックス席にて観戦。最終レース1400m多利高は三番人気にて期待したが最終コーナーまでいい位置につけたものの直線で前を三頭に塞がれ抜け出せず埋 没。競馬終わり競馬場よりオケラ街道歩いて沙田に向かい沙田の龍華酒店にてランニングクラブの例会。唯霊氏推薦のメニューとしたが鳩とスープ除いてイマイ チ。終わって二次会となり今回の幹事である沙田居住のカナダ系秋田人T君の按配にて沙田Riverside HotelにあるBig Echoの経営するハローキティカラオケなる奇っ怪なるカラオケボックス。カラオケ、お付合いでフィリピン人ホステスなどいるカラオケバーは年に一度程度 か訪れたことあるがボックスなるもの実に七年ぶりか。何故にカラオケボックスのコンセプトがハローキティでなければならぬのか全く理解できずカラオケ楽し む素養なければ西田佐知子のコーヒールンバ一曲のみマイク握る。終わって新婚のK氏夫妻、T君、Z嬢とタクシーにて香港島までボックスに残った麦酒飲みつ つ帰宅。
▼豊田直巳さんといふフォトジャーナリストがこの春イラク訪れ湾岸戦争の傷跡を写真に押さえる(国際衛星版 朝日16日)。湾岸戦争にて地上戦があった、クエートに近い南部のバスラ市にあるサダム教育病院、「眼球が顔からこぼれ落ちそうになっている子ども」や 「呼吸困難の発作に耐える子ども」、「頭髪が抜け落ちた子ども」で病室はいっぱいで、内臓が対外にこぼれ出たままに死産となった多くの赤ん坊の写真が残 る。癌の再発で顎、といふより喉のまわりにマフラーでもしたように顔まわりより大きな腫瘍ができた少女の写真は悲惨すぎて見るに耐えぬ。すでに腰骨が蝕ま れ治療はできず。こういった後遺症は被害者であるイラク側ばかりでなく湾岸戦争から帰還した兵士とその家族に「湾岸戦争症候群」といふ癌や白血病、異常出 産が多発しボスニアコソボ紛争に参加したNATO軍兵士の間でも白血病による死亡が続く。これは米軍が使用した劣化ウラン弾放射能と猛毒が原因と言わ れている。大量破壊兵器を何の制約もなく有し正義と民主主義の名の下にそれを使って「悪」とされた側の人々を殺戮し正義の勝利などと浮れる下劣なる大国あ り、それに羞ずかしさもないまま追従する英、日など国家といふにも値せぬ腰巾着集団あり。南無阿弥。