富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月十四日(木)
▼粋人築地のH君、朝日13日付埼玉版で「幻の演目で‘初’歌舞伎」という記事見つける。「歌舞伎といえば 伝統を重んじ、例えば女性は舞台に上がれない。だが若手を軸に「型にとらわれないでなんでもやろう」というグループが小鹿野町に生まれた。町の歌舞伎・郷土芸能祭で16日に初演されるのは、老役者の頭 脳に70年近く眠っていたチャリ(こっけい)物。さて、どんな舞台になるやら」といふ書出し。こういった 取組みはいいことだが、H君指摘するに記事が拙し。以下、H君曰く、女優は舞台に「上がれない」わけではなく単にキャスティングされないだけだもの。前進 座には女優もいるし歌舞伎座だって波乃久里子水谷良重は出演したことがある。相撲やなにかと混同か? 演目は「一谷嫩軍記宝引之場」(文楽の床本ですがこ ちら)、記事で「世話物は庶民の日常生活を描き、狂言のような軽い筋書が多い。面白いが、何場も続く芝居の本筋に結びつかないので、都会の大歌舞 伎ではほとんど演じられない」という記述も不正確。 まずこれは「世話場」の誤り? 「一谷」はレキとした時代物、ただし時代物の狂言であっても世話狂言 として演じられる幕もあり、それが「世話場」。たとえば「仮名手本忠臣蔵」は時代狂言だが勘平の切腹を描いた六段目は世話場。また黙阿弥や南北の世話物、 世話場では「義経千本桜」の「すしや」など今日でも繰り返しいやというほど上演されており「都会の大歌舞伎ではほとんど演じられない」なんてことはない。 「狂言のような」という表現もなにかの誤解。歌舞伎の世界で「狂言」といえばふつう芝居それ自体をさし、いわゆる「能・狂言」の狂言というつもりであれば 世話場は狂言とは類似点はなし。「世話」というのは様式的でない義理や人情のリアリズム演劇をさす(当時の)コトバだから単に滑稽な場という程度の意味で 「狂言のような」と書いたなら非常に不適切。「能・狂言」の意味での狂言と類似するのは「身替座禅」などの「松羽目物」と称されるものがあり、これは「世 話物」「世話場」とはまったく異なる様式的な演劇。ちなみに、この公演ぢたいは秩父の農村歌舞伎の流れをくむ小鹿野町の田舎歌舞伎が85歳の長老の記憶を たよりに一晩でワープロ打ちしたホンで「一谷嫩軍記宝引の場」を演じる。すくなくとも戦後は上演の記録がない、というもの。内容はこの記事の「源平政争の 真っ只中、平敦盛の母が通りがかる村で庄屋と村人が繰り広げるコメディ」とこれはほぼ正しく「チャリ物」、それがなぜ記事の中で世話物という扱いになった のか。
▼37歳の電脳プログラマー、ショッピングセンターのトイレにて15歳の少年を無理矢理個室に連れ込み「淫 らな行為」と(蘋果日報)。その裁判記事読んで一驚するはこの男が公共福祉活動に熱心で過去六年基督教会の福祉活動に従事、中国で学校に行けぬ貧困児童の 支援だの孤児の里親活動などを実践、と。そういう公共心溢れる男が……というが「白人」歌手M君を見ればわかる通り「そんなの公共心じゃないぜ」と法廷で 誰も疑わぬか。裁判という装置の中でこの犯罪者に眼差が注がれるが罪深き犯罪とそれに背馳する公共心=善が語られ誰も実は子供への慈善と性欲が結びつくこ とに気づかず(気づいてもタブーとして口に出来ず)いずれにせよ権力の下この男は監獄に送られるといふかなりフーコー的な世界。