富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月二十二日(金)快晴。▼朝エレベータにて階上に住む韓国人と遭ひ冬季オリムピックにてショートトラック・スピードスケート韓国の金東聖君金メダル失格の話題となる。選手間の全く個人的な問題とは言い切れず国家間のパワーゲームの感あり。オリムピックは平和の祭典と持ち上げられるが<国家>なる装置による<ナショナリズム発揚>の演出の場にて西班牙フランコ独裁政権に深く絡んだ「人民の敵」サラマンチ統治以降は企業利益が蔓延。アテネとスパルタが戰いを止めたなどという逸話を持ちだし平和の祭典というがそもそも都市国家どおしが武器を捨て肉体を武器に争っているのであり、そもそも最初から平和あるのでなくいつの世も戦争継続が前提であることはかなり興味深きこと。争いが止められる人間の象徴的な催し。たかだか運動を国家名に基づく競技として平和の祭典などと意義づけることが大間違い。単にスピードと技量を競うワールドカップで充分。▼築地のH君より幕見にての「寺子屋」、松王=播磨屋、源蔵=天王寺屋、千代=大和屋、戸波=松江は当代の顔合わせ、播磨屋の松が絶品、と。「ホウ笑いましたか」から「倅がことを思うにつけ。倅がことを思うにつけ、桜丸が不憫でござる」で号泣するところ。一方、それを聞く源蔵の天王寺屋がこの真実を知り殊勲のはずが松王の愛息の首を刎ねたことに気づいての葛藤モード、そこに奥の間から当の菅秀才が現れると一瞬にしてその葛藤が吹き飛ぶ……この感情の動きが瞬時に「忠義」に飲み込まれる、この物語をGHQは「封建主義賛美」として上演禁止までしたわけだが、よくよく考えれば源蔵=観衆はその不条理を「ああイヤだが仕方ない」と感じたか不人情に怒りを覚えたかがあるわけで、そうでなければ永く上演されてくるほどの根拠もなし。やはりいい脚本(ホン)といふものは解釈を一辺倒にせぬところ、とりやふによって如何様にでもとれるところが素晴らしい。GHQにはそこまでわからず当然であるが。▼寺子屋で松王といえば高麗屋。H君曰くテレビの劇場中継にて高麗屋の松王見たとき「ハッパでキマってたので例の「桜丸」のところはグッと迫るもの」があったが一方でせき込むところのあまりのやり過ぎ「ウゴーッフ、ウグォーホッホッホ!ウガッフォッフォッフォ!!」と(笑)。それを今回の播磨屋はサラッとすませ、やはり兄弟でも松王の解釈にかなりの違いあり。高麗屋さん来月は「一本刀土俵入り」。H君案ずることもくれぐれも「駒形茂兵衛という人間の心の陰影」など造形せぬように、と(笑)。出の、腹減ってフラフラの表現が心配というか見物 。確かに。中村屋ならこの出を単に腹が減ってふらふらと演じて好演だろうが高麗屋は「何故に腹が減り何故にこの道を歩むか」と芝居すべてにきちんとした理屈をつけてしまふ、か。