富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月二十四日(月)晴。世には未だ健勝であり乍らすでに逝去せしと思われる方もおり余にとっては小学五、六年だかの頃に母の本棚にありし串田孫一の詩集を読み当然この詩人は他界しているものと思っていたが高校の時だか朝日新聞でご本人の随筆が掲載され余にはまるであの世から書かれたのか如く驚き今もってご健在か。今朝の新聞にてバイオリンの巨匠アイザック=スターン氏の弔報、この人もまた余にとっては勝手乍カザルスと並ぶ時代の人にてきっと最初に小学生の時に聴いた時からすでに故人であった。映画『洗澡』について映画評書いたがどこも掲載に値せぬと思われ富柏村サイトにて公開決定。それにしてもあの映画を「 心が疲れた時に見てほしい、きっと暖かい涙で癒される親子の物語 」と見てしまった配給元は不幸なり、こんな冷たい世界はなし、それにしても家族の「愛」に潜む不条理、冷たさを描けた作品、『チボー家の人々』なり『楡家の人々』なり『ガープの世界』や向田邦子作品と並び、この『洗澡』は見事。かつての香港政庁行政評議会議(Exco)の重鎮であり中英交渉でも活躍した(らしい)鐘士元が齢80にて真剣に引退を決意したのか『香港回帰歴程−鐘士元回顧録』を上梓、ただ基本的に中英交渉の中枢からは外れた御仁にて実際に1984年(その年の12月に香港返還の中英合意がなされる)の6月には登小平(当時党中央顧問委主任)の香港の鐘士元、利国偉、登蓮如という3名の立法、行政評議会議員と会見があり、それはかなり注目されたし鐘士元の今回の回顧録もそのへんが一番のウリなのだが実際になぜこの会談が有名かといえば登小平が「香港問題は中英間で解決し、香港を交渉当事者にすることはない」と語ったからで、鐘士元は自分が返還後の行政長官候補としても名前が挙がった事とか書いてるが、実際に我々にとって鐘士元の強烈な印象というのは1997年7月1日午前12時からの返還記念式典での江沢民主席を前にしての香港立法、司法、行政のお歴々の宣誓があってのだが、この鐘士元の北京語の下手さといったら会場から微笑ましい失笑がおきて江沢民も笑うのを我慢していたほどで、この御仁が行政長官になれるなんね誰も思ってなかったのに回顧録でそのへんを自慢するとはほんと幼気(イタイケ)なジジイである。香港の禁煙問題、飲食店どころかバー、カラオケまで全面禁煙にするというシンガポールも真っ青の禁煙条例が出るか出ないかの瀬戸際、反煙草団体や医師団は禁煙推進を訴え、煙草業界は戦々恐々とダンマリを決込むが、蔡瀾が本多勝一的に反・反喫煙で感情的に絶叫しているのはどうでもいいとして我が敬愛する劉健威までが、どうして喫煙者というのは喫煙問題となるとムキになったガキになってしまうのか、劉健威ですら、香港空港のあの喫煙所がまるで喫煙者という見世物小屋のように設計されていることが時代を超えた現代建築のもっとも非文明的な部分であるといい(ノーマン=フォスター卿は本来、喫煙所すら空港に作る気はなかったと余は察す)、政府の条例に従い「禁煙席は設けていません」と表示までしている店なのに煙草を吸っただけで煙草を吸わぬ客に白眼視され(確かに喫煙を怨むものは禁煙席のない店はむしろボイコットすることで主張を通すべき)、喫煙者は煙草に重税を支払っているのに尊敬されないどころか白眼視され(これは間違い、むしろ喫煙者の気管支系疾病の治療などのために非喫煙者が税金負担をすることがヘンで、喫煙者が税金を拠出することは当然)、煙草を吸わない者も喫煙者の権利を尊重すべしと(これが蔡瀾などもそうだが大きな間違い、単に政治的民族的マイノリティならまだしもテロで殺される者にテロリストの権利を尊重すべしと言うのと同じ、どう考えても非喫煙者の権利が優先されるべき)。飲食店を全面禁煙にするのではなく店と客の選択として禁煙にするのかどうかを選べばいい、という劉の主張は一見リベラルなのだが、問題は、会食なるものは喫煙者と非喫煙者が同席することが屡々あり、その場合、喫煙者が立場が上だと非喫煙者が喫煙場所に軟禁され煙草の煙に咽ばざるを得ない、ということなのである。煙草を吸う者で、しかも蔡瀾や劉健威は周囲の非喫煙者を黙らせるだけの立場にあるという自らのエゴを理解して客観的に語っていないのが悲しいこと。夕方ジム。佐敦で藪用あり100年ぶりに彌敦粥麺家にて雲呑麺食すがここ数年でかなり味が落ちていないか、同じ佐敦なら麥文記のほうがかなり好し。