富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月二十二日(土)快晴。海にて読書。競馬予想。京城之寶今季開幕戦行政長官杯での一番人気での退出の不名誉挽回と本日第一班に出走に期待。夕方ジム。夜ランニングクラブの月例会。京城之寶今回はパドックでこそ転倒しなかったものの出走前に覇気極まり騎手・韋達を振り落としゲートインにて興奮さめやらず退出。措置なしか。蔡瀾、蘋果日報の随筆に「野坂昭如」なる文章、野坂が『エロ事師たち』に始まり衝撃的なエロティックな筆致にて鬼畜小悪趣味にて戦後文学で一時代を築きながら突然風采と生き方を変えと紹介、前回の参議院選挙にて大阪は黒門市場にての街頭演説に偶然遭遇したそうでかつての流行作家もまるで有楽町にて連日演説を続けた愛国党赤尾敏のようになりき、といったい何が書きたいのか、それも野坂を一切知らぬ香港の読者相手に何が言いたいのか全く理解できぬ文章。野坂昭如を語る時『エロ事師』で始るはいいにしても氏の戦中、焼け跡派としてのアイデンティティ、そこから来る反権力と孤立を恐れぬ無頼、そして何に憤り政治に介入するかを一切考えず街頭に立つ様を見ただけで世の中から相手にされぬ老人と評するとは。老いの世代に入った自らが次第に世間から離れていくことを嘆いての文章なのか。一切わからず単なる痴呆かとすら思える。朝日新聞にて坂本龍一が「日本の首相が憲法に基づいて戦争反対を表明し平和的解決のための何らかの仲介的役割を引き受け……」と復讐しない真の勇気を語り誰も他に語らぬ理想論として一見に値する。加藤周一は『夕陽妄語』にて、日本のナショナリズムの「ねじれ」を論じ、日米関係から生じる日本のナショナリズムはその捌け口をアジア近隣諸国に求め、その日本への内政干渉を非難する輩が米国の日本への干渉には冷静であること。そしてナショナリズムが軍備増強に短絡的に結びつき軍備増強は米国追従を強めナショナリズムを貫けば米国からの真の独立を唱えざるを得ない、このねじれ、これがイマイチなため戦後右翼の人気がどうしても抑制されてきこと。そして「国家」神道にかわるナショナリズムイデオロギーを発明できなかったこと。とここまで碩学は明解に述べるのだが、ただこの「ナショナリズムを創造的な力に転化する可能性が芸術の領域に残されている」とか「地域的特殊性から出発して、それを人間的なるものの普遍性へ向って乗り超えてゆく運動」とかと論考を結ばれてしまうと、かつて『羊の歌』(岩波新書)にてキミ(加藤)は戦時中軽井沢にこもって哲学的談義に耽りながらメーメーかよ!と嘆いた一読者としてはやっぱりこのテの知識人は苦手だ、と思ってしまい、運河に光る玉を限りなく浮かせた草間彌生に拍手を送りたいのだ。