富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月十二日(木)曇。映画『洗澡』(こころの湯……笑)の拙論につき月本氏よりメール戴くに『男はつらいよ』にて示唆を得、死後の物語(早川光氏)なる点、ふと思えばお盆に公開もその所以か(笑)竜造役にて区切る方法を用いれば、初代の森川信の時代、寅がかなりフーテンで過激、森川演じる竜造は寅と取っ組み合いの喧嘩まで、寅の住む世界は現実そのもの、まだ人々ちょっと貧しく、さくらの勤める会社が高度経済成長の象徴で、職工が集団就職してきて下町に工場があって……と。寅も現実のなか怒ったり泣いたりと。それを「生の時代」とすれば、最後まで長く続く下条正己が竜造を演じる時代、映画通の間ではつまらないと酷評されるシリーズこそ死後の世界、幽霊が柴又という町に集まり物語る世界、現実の20世紀末の日本とは隔絶したムーミン谷にて妖怪が繰り広げるこの物語、実はかなり不気味で面白い作品群なのだと再認識す。竜造はもはや寅と喧嘩するような事もなく、下條には失礼だがただ寅に呆れる老衰モードか。そう考えれば二代目竜造の松村達夫の時代、中期低迷期といわれしが、まさに生と死の時代の過渡期としての危篤モード(笑)。森川の時代の如く寅と竜造喧嘩するが、松村は寅に眩暈して「おい、まくら、さくら持ってきてくれ!」の名セリフ。下條の時代のあのマンネリこそ黄泉物語、最も過激な作品か。しかしながら唯一のズレは主人公が光男とゴクミに移行する段、寅が新幹線についに搭乗し、作品は黄泉からまた20世紀末の現実世界に戻りたり。光男に移行せず何故に寅を殺さぬか、テレビ作品にては確か寅ちゃんとドラマの最後にて亡くなりたり。早川光氏の名、なぜかこれまで氏の著書読む機会なく『江戸前ずしの悦楽』を早速紀伊国屋に注文す。『洗澡』日本配給元が宣伝担当部門に電話し日本にて大明が「妻」の根拠は何処にありしかを問ふ。電話に応えし担当者予の質問の意味を暫く理解できず「妻」の何処に問題が?と。幾度も大明その電話向こうの主を妻とは言及せずそれ裏付けし詞も映画中にあらず、何を根拠に妻としたのか、それが制作者側からの資料ならばそれでよし、それとも単なる思い込みかと質せば、中国語解る者なく「あちらの言葉で妻をなんと呼ぶかわからぬ」と。妻をなんと呼ぶかの問題ではなく妻と呼ばず。プレスリリースは外部のライターが書きしもの、それを宣伝担当数名が見て通したり。先方徐々に気が落ちつかず誠意をもって質問点を並べたつもりが「何か間違っていて、こちらにいったい何をすればいいというのですか?」とまで言われ、話にならず。先方の気を害し点は大明が「片田舎から大都会に出て」と先方は予が質問もせぬ大筋まで解釈を披露され予がつい「あれはそもそも片田舎でなく北京の下町なり、何をもってまた深センを大都会とせしか?」と質した事らしからん。宣伝文にも大都会、大都会と書きたりければ面目なき事か。少なくとも配給元の宣伝部に中国側からの資料なき事が判明。黄昏にマンションが游泳池にて今季の初泳ぎ、すでに家庭は夕餉時か予の他に水面を惑わす者おらず心ははやDavid Hockneyの世界にあり。参議院選挙公示、安易な小泉拝みに抗せむと思えど、大橋巨泉幸田シャーミン須藤甚一郎とバラエティショウ頼みの民主党、イマイチやっぱりの共産党市川房枝なき二院クラブは青島君にて言語道断、狐目宮崎学氏は支持したきが不明は自由と希望、自由連合はまさに党名の通り佐山サトルに荒瀬から高橋三千綱月亭可朝羽柴誠三秀吉渡辺絵美に渡辺文学までカーニバル状態にてそこに思考回路の自由奔放さにかけては他者の追従を許さぬ野坂昭如……参議院良識の府とは、こういう無節操な政党活動こそ小泉君にて自民党を安泰させし元凶なり。在外選挙投票にて郵便にて中村敦夫君の新党さきがけかと悩み新社会党は谷田部理君に一票を投ず。海外より新社会党に投票せしは予独りかと察す。