富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月十六日(土)浅田秀子『敬語で解く日本の平等・不平等』(講談社現代新書)、もう少し言語学的な言葉の政治性の分析を期待したのだが、渡辺昇一的な美徳語りに終始、仏蘭西人ならこの場合、とか、ユダヤ人は、とかの連発、「中国の学生は教師の与えた知識を記憶しようとするばかりで自分からテーマをみつけて資料を調べたり自主的に研究しようとする姿勢が希薄」と一刀両断に決めつけられてもねぇ。ましてや「日本は江戸まで上下の交流があった」という、これは所謂ビクトリア王朝的な、産業革命的な政治経済制度が生まれるまでは世界各地みな「思惟的には」そうなのだが、「日本は」と強調し、その例に古事記から倭建命や仁徳天皇の国見の逸話など持ちだされ「日本は古来」といわれても困るのである(笑)。というわけで一冊まるまるこの調子、そして最後「日本の未来はわれわれの使う敬語にかかっている」とは……。山本夏彦『完本文語文』以来のトンデモ本。続いて林望『日本語へそまがり講義』(PHP新書)、 凡河内躬恒の「こころあてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」を罵倒した子規の論を歌は文字ではく当時耳から入り句が進むこごに想像をかきたててゆくという観点から子規論を覆すあたりは読んでいて心地よくもあるが、林望の皇族の御製に対する陶酔、と国家言語的な感覚は不快。永井荷風の田舎漢嫌悪と言葉に対する鋭敏な感覚への同感はさもありなん、いずれにせよ浅田の『敬語で解く』よりは読むに値する一冊。昼に佐敦は麥文記にて姜葱撈麺。晩は赤柱Staleyに再建されたMaley Houseの洋館にあるEl Cidoなる西班牙風料理屋のバルコニーにてランニングクラブの月例会。陽明山莊住人I氏に誘われうさぎやのどら焼きを山荘に寄りいただき帰宅。