富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大石真『チョコレート戦争』

辰年三月初九。気温摂氏13.2/23.9度。早朝に俄雨のち曇。午後晴れ。

チョコレート戦争 (フォア文庫 愛蔵版)

突然なぜ大石真『チョコレート戦争』(理論社)のこれを読んだのかきっかけが思ひ出せない。昭和40年の刊行で当時から人気の児童読み物だから小学校の図書館とかにあつたのだらう。だが読んだ記憶がない。小学生のころから児童図書とか「子ども向きは幼稚で好かない」と思つて目もくれなかつたのかもしれない。

ケーキやさんのウィンドウガラスが割れて、いあわせた明と光一が犯人にされてしまう。身に覚えのない罪をきせられたことから、子どもたちは町一番のケーキ屋さんに戦いをいどみます。(Google Books)

これも児童読み物とはいへジャンル的には推理小説である。だから「犯人は誰だ」なのだが、その謎解きの結末が「偶然の出来事」では面白くない。勿論「偶然の出来事」でまるで意図してゐなかつたアクシデントが生じたり不慮の事故だとか、自分が突然その事件の犯人とされてしまふことなど事実、あるだらう。だがフィクションで何か起きた事件の発端が偶然のことで、その加害者……ではないな、そんな意識もないのだから、だから「能動者」とでもしておくが、だからそんな「実はそんな能動者がゐました」はフィクションの小説で用ゐてはいけないと思ふ。こんなプロットを使つたらフィクションなどいくらでも出来てしまふ。この小説でも「ケーキやさんのウィンドウガラスが割れて、いあわせた明と光一が犯人にされてしまう」といふ発端は良いが、ではなぜ「ケーキやさんのウィンドウガラス」が割れたのか、を何か事件の因縁深い背景であるとか(横溝正史)、あるいは巧妙な仕掛けがあつたとか(江戸川乱歩)、さういふ何かしらの「知恵比べ」があれば児童小説としても面白いが「偶然でした」ではダメだろ。それがなぜこんなに評判になつたのか、当時の識者がこれを名作とするのか、が理解できなかつた。この子どもたちは無実の罪が晴れて、とされるがそも/\仕返しとはいへ窃盗を計画して立派に実行してゐるのだから、それだけでも叱られて当然の「悪い子」のはず。少年院に送らるほどではないが保護観察処分だらう。それが許容されのが1960年代、革命と毛澤東主義の時代を反映してゐるやうに思へたのでした。

戦争とジェンダー①「増える女性兵士、背景に国の思惑」一橋大教授・佐藤文香:朝日新聞

女性兵士の増加はジェンダー平等でいいことだと片付けるのではなく国家や軍が女性に門戸を開く背景にどんな動機があるのかと考えることが大切。(略)先進諸国の多くは少子高齢化がすすみ兵士のなり手不足に直面している。男性兵士だけではいずれ人材が枯渇するという危機感から女性に手を広げている。

朝日新聞(夕刊)でこんななか/\考へさせられる記事を読んだ。その隣の記事がこちら。

岡田育(ハジッコを生きる)マイノリティが多数派の街:朝日新聞

ほんとうに文章が上手い。やさしい言葉で書いてゐるのだが内容はとても深い。句読点まで心地よい。敬服。

ニューヨークは世界の中心とも呼ばれるが、地球上のありとあらゆるハジッコ者が流れ着いてひしめき合って、てんでばらばらに我が道を行くような、無理してみんなを中央揃えさせる必要はないと言わんばかりの、多様性の街でもある。日本社会ではマジョリティ側のハジッコに属していた私も、ここでは見事にマイノリティで、そして少数派の寄せ集めが最大多数派となるこの街が、故郷よりずっと生きやすい。