癸卯年三月初七日。気温摂氏11.8/19.3度。雨(27.5mm)。
観世銕之亟『ようこそ能の世界へ ― 観世銕之亟 能がたり』(暮しの手帖社)読む。静夫さん(銕之亟)の長兄、観世寿夫の能に関する理論的で精緻な文章を読んだあとだつたので、この方の、歌舞伎役者でいへば芸談のやうな、能に関する語りは殊にまだまだ初心者のアタシにはじつにタメになる面白いものであつた。易しく語るのだが実に能の本意に触れる良い言葉もいくつもあり。
男の私が女になるということは、不自然といえば不自然なんだけど、男としての役者の実体と、役として扮した女との距離を埋めていく。そして見ている人に、目の前にいるのは女なのだ、という錯覚を起こさせる。その錯覚させるための技術というのか演技が役者に必要なわけですが、それとともに、自分の美学を露出するということも、等間隔くらいなところで持っていないとダメなのです。
ふつうの演劇は、舞台に人間が現れて、そこに何か事件がおきてドラマが始まるんですが、能の場合は、事件というのはすでに終わっていて、舞台は、その事件によって引き起こされた何らかの状況を背負った人が現れるところから始まる、みたいなところがあるんですね。
平家を背負って、ひよわな女性にすぎなかった人が、生き残ったがために辛い物語をする。しかも黒ミサ的ないたぶられ方をされ、それでも過去を背負って語って生々しくならず、かつ鎮魂の思いがでるには、男が女面をかけて演じることでしか成り立たない、と私は思うのです。面をかけ、面と葛藤していくみたいな距離があることにおいて、生の人間の顔ではどうしても出せない辛さというか、悲しみが見えてくるのです。これが、能がこうして六百年以上続いてきたことの意味ということにもなるのでしょう。
私たち能役者は、神というものについては、少なからず思い悩んだときがあるのです。というのは、私たちは戦争のなかに生きてきて、それが終わったときというものも経験しているので、天皇と現人神という神がくっついてしまっていたのです。それに神さまに対しての考え方というか価値観も、戦後は大きく変わってしまったものですから、ある時期までは、神さまの扱いが難しい、能というものの作り方が難しい、と思ったりしました。
鬼の面のしめくくりとしてお話ししますと、世阿弥はその晩年には形も心も鬼である力動風の鬼を演じることを禁止しています。上演するに値するものは、形は鬼でも心は人間である砕動風の鬼という考えになったようです。つまり、なにかの戦いとか相剋のなかで鬼というものが生まれてくる。いろいろな出会いとか環境で、鬼でなかった人間が鬼になり、その人間性が悪霊になっていくということなのでしょう。現代にも、心のなかに潜む鬼がいる、そして不幸なことですけれど、他者や異民族と戦争という諍いを繰り返している。毎年、自然の驚異にさらされ、自然を軽んじていることで起きるいろいろな事件があとを絶ちません。
六百年以上も前に投げかけた世阿弥の世界の鬼は、この現代の私たちのなかにも生き続けている、そういうことなのでしょうね。
華雪、雅雪、寿夫を語ると銕之亟家に脈々と流れる「風」があるといふ。風流といふ言葉があるが「自分の理念のなかにある美学みたいなもの」を「風」としたら、その美学をひとつの流れとして広げるのが「流」。風流といふと粋とか趣きとかいはれるが、むしろ理念のなかにある美学を以つて、いろいろなことに接し、伝へ残していく、さういふものが風流である、と。御意。銕之亟家は表現は難しいが「深いリアリティのある演技、それが自分の生きざまと重なりながら舞台の上で成り立ち、そして見せかけではない芝居がやれた」ことと表された。なるほど。