富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

首里城焼失

f:id:fookpaktsuen:20191102000644p:plain
f:id:fookpaktsuen:20191102000656p:plain
🇨🇳中共十九届四中全会在京举行🇨🇳中央政治局主持会议 中央委员会总书记习近平作重要讲话!
全会提出,坚持和完善“一国两制”制度体系,推进祖国和平统一。“一国两制”是党领导人民实现祖国和平统一的一项重要制度,是中国特色社会主义的一个伟大创举。必须严格依照宪法和基本法对香港特别行政区、澳门特别行政区实行管治,维护香港、澳门长期繁荣稳定。建立健全特别行政区维护国家安全的法律制度和执行机制。要坚定推进祖国和平统一进程,完善促进两岸交流合作、深化两岸融合发展、保障台湾同胞福祉的制度安排和政策措施,团结广大台湾同胞共同反对“台独”、促进统一。
習近平の重要講話の内容とかより19回目となる党大会の4回目の中全会(中央委員会全体会議)が開催され最終日に中央政治局が主催の会議が開かれ中央委員会総書記が重要講話を披露して満場の拍手のなか……といふ崇高なる形式主義がお見事。やつてゐてつく/\ばか/\しいと思はないのかしら。習近平の表情がいつも「つまらなさう」なのが印象的。
f:id:fookpaktsuen:20191101143441j:plain
f:id:fookpaktsuen:20191101113704j:plain

朝日新聞のこの記事「香港ハロウィーン 覆面禁止に抗議」ダメでせう。

f:id:fookpaktsuen:20191101143446j:plain
記事で「林鄭月娥行政長官のお面をつけて」とある写真は林鄭のお面に非ず林鄭に件の台湾で彼女殺したといふ青年の顔コラージュしたもの。ネットでは出回つてゐるが。これぢたいアタシは悪ふざけがすぎると思ふが、それを「林鄭月娥のお面」と記事にしちゃ余計にいけない。


f:id:fookpaktsuen:20191102083239j:image

f:id:fookpaktsuen:20191102083235j:image

黄昏に炮台山から太古まで歩く。北角碼頭で15年以上にわたる再開発計画がほゞ竣工で集合住宅やホテル建つ。遊歩道整備され緑も多いが90年代の公共団地に囲まれた中華巴士の乗り場が懐かしい。
f:id:fookpaktsuen:20191102083249j:image

貯水型の大型バリケードで厳重に包囲された北角警察署。歩道を遮つてしまひ平常時はバリケード開け「抜けられ〼」だが今の香港の流言蜚語世相では「こゝを通り抜けると拉致される」とか「出てくる数が入つた数より少ない」とか実しやかにいはれるのかしら。太古坊の「一芳」飲料店は店内にレノンウォールですつかり抗議方御用達。一時は土共と睨まれ看板が「共芳」なんて書き替へられてゐたのだが。


f:id:fookpaktsuen:20191102083314j:image

f:id:fookpaktsuen:20191102083317j:image

台湾の新聞は首里城焼失が一面トップ。やはり。蘋果日報の図解が相変はらずわかりやすい。

台灣檜木林伐採最早是1912年阿里山鐵路竣工後,20世紀全台檜木砍伐量估1282萬立方公尺,主攻外銷日本;日本藥師寺金堂、京都平安神宮東大寺大佛殿、東京明治神宮靖國神社等,木料均來自台灣。

タイワンヒノキが首里城ばかりか日本でどれだけの神社仏閣の修復で使はれてきたか。

f:id:fookpaktsuen:20191101113729j:plain
f:id:fookpaktsuen:20191101113726j:plain

首里城焼失について城間幹子・那覇市長が焼け跡を見たあと記者の取材に「戦後の首里城の(焼け跡の)写真を見たことがある、それを思ひ出すやうな光景だつた」と語られてゐたのが印象深い。沖縄の作家・池上永一氏の言葉もその城間市長の感慨の延長で読むことができる。

首里城焼失「ウチナーンチュ肯定した革命」池上永一:朝日新聞

私は首里城が焼失した現実を、まるで災害に遭った被災者のような気持ちで受け止めている。ショックが大きすぎて、自分がふわふわ漂っているような心境である。
1970年代、私の記憶する最初の首里城は「怖い場所」だった。子供の悪ふざけの場で語られる肝試しの場だ。
当時は復元事業も行われておらず、「首里城」という名称ではなく「琉球大学跡地」と呼ばれるのが普通だった。
私の幼心に刻まれた首里城は、ひめゆりの塔や旧海軍司令部壕に代表される、いわゆる戦跡である。沖縄戦のとき、日本軍の司令部が首里城にあり、アメリカ軍の艦砲射撃によって焼失した忌まわしい場だ。
当時は守礼門だけが再建され、そこで撮られたスナップ写真を見ても、首里城の全体像を描ける人は皆無だった。
80年代に入り、首里城復元事業が本格化すると、かつてのイメージは劇的に一新されることになる。
92年、復元された正殿を初めて見た時、あまりの美しさに呆然とした。弁柄漆の赤い城と、青空が鮮烈なコントラストを見せていたからだ。ピカピカに輝く赤い城は、私の目に美術工芸品のように映った。
同時に私がこれまで触れていた紅型や、漆工芸、琉球舞踊などの琉球文化のパズルが一枚の絵にぴったり収まった瞬間でもあった。沖縄の美は全て首里城に集約される、と確信したのだ。
首里城が私にもたらしたのは、ウチナーンチュの私を肯定してくれる意識革命だった。
私より上の世代にはルサンチマンがあった。琉球処分沖縄戦アメリカ統治時代、本土復帰と激動の歴史を経た沖縄を卑下するような認識だ。
それが首里城の復元によって、私たちは自らを肯定的に捉えられるようになった。美しい文化があった琉球王国を懐かしみ、誇りに思うようになった。これらは偏に復元事業に携わった有識者や職人たちの知恵と技術の結晶である。

f:id:fookpaktsuen:20191101100035j:plain