富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

東都その④

fookpaktsuen2018-08-09

農暦六月廿八日。台風は鹿島灘沖に逸れ東京は昨晩の雨風の多少の強さのみ、今朝はすでにどんよりとした曇り空。上野の国立博物館での縄文展、国宝の縄文土器土偶6点が初めてまとめて展示ださうで、かなりの反響と聞いてゐたが、この悪天候のあとで今日は空いてゐるのでは?と六本木から日比谷線で開館に合はせて向かふ。日比谷線でぼんやりしてたら入谷。上野に戻つても上野公園歩かないといけないし入谷から鴬谷を抜け国博へ。期待通り?でかなり閑散。国宝の6点もまるで独り占めのやうに四方八方から眺める。あの時代、いつたいだういふ観念が縄文人の人々にあんな創造的なものを造らせたのかしら。永遠の謎。アタシら現代人の創造性がどれだけ欠如してしまつたか、は明らか。ミュージアムショップで縄文グッズの品揃へに期待したがイマイチ。コクヨの、アタシも愛用するフィールドノートで遺跡発掘に託つけたのだらうが表紙が縄文土器のものだけ面白いと思つたが、このフィールドノートは買ひ置きのストックもまだ随分とあるので購入せず。ふだんの昼間よりずつと閑散とした上野公園を抜ける。動物園も静かな様子。広小路。組み紐の道明。初場所以来、応援したくなつた武蔵川部屋の海舟君が名古屋場所では三段目西47枚目で5勝2敗の好成績収め、そのお祝ひに白銀の羽織紐を贈る。桜色の腰紐は自分用でカジュアルなベルト代はりに。銀座線で赤坂、丸ノ内線で新宿。西口のユニクロで夏のハーフパンツ贖ひLタワーの寿司いしかわで家人と寿司をつまむ。半年に一度しか来ないのに「毎度」といはれこそばゆい。常圓寺墓参。家人と別れ新宿散策。KEN NAKAHASHIギャラリーに寄る。3日で海老原靖の個展終はつてをり画廊主にご挨拶するだけのつもりだつたが海老原靖の展示まだ続いてをり子役カルキンをモチーフにした作品のうち(そのいくつもは売却済みだつたが)最もシンプルな空ろな表情のカルキン肖像画あり、これは食指動く。早晩に御苑のAureole(オリオール)といふ意太利料理屋でY兄と会食。食後、新宿で知る酒場に一飲して麻布に戻る。

▼翁長沖縄県知事逝去。今秋の知事選前に体調崩され自民党は着々と対立候補擁立のなか、まさかの翁長知事の急逝。基地問題での次々と既成事実化、知事の健康問題あり再出馬も微妙といはれてゐたところでオール沖縄の勢ひに陰り見られ自民党俄然優勢だつたが知事急逝でオール沖縄側が弔ひ選挙で、その流れも晋三には気になるところだらうが何しろポスト翁長の候補がゐない。那覇市長選挙で再選に意欲見せた城間市長の県知事選出馬の要請とかもあるのかしら。翁長知事といへば元々は自民党の沖縄の重鎮。その方がなぜ自民党と反目してまでオール沖縄で沖縄の立場になつたのか。まづ言へることは翁長さんが本当の保守中の保守といふこと。保守であるから本来の沖縄の姿を守らなければならない。今でも翁長知事で一番印象に残るのは2015年4月に、まだオール沖縄に力のあつた時だが菅官房長官が沖縄訪れ知事と会見した際の翁長知事の会見冒頭でのコメント。

日本を取り戻す日本の中に、沖縄は入っているんだろうかなというのが、率直な疑問ですね。それから「戦後レジームからの脱却」ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしているような感じがするんですよ。一方で、憲法改正という形で日本の積極的平和主義を訴えながら、沖縄で戦後レジームの死守をするようなことは、私は本当の意味での国の在り方からいうとなかなか納得がいきにくい、そういうものを持っております。

と、これは白眉。冒頭のコメントとしてはかなり長いものであつたが、これを知事は原稿やメモを見ることもなく一気に、理路騒然と独り語り。かなり長文だが翁長氏の逝去にあたり改めて、これは必読ゆゑ、そのまゝ引用。

菅義偉内閣官房長官、お忙しい中をこのように時間を割いていただきまして意見の交換の場を作って頂きましたことに感謝を申し上げたい。いま、官房長官から話がありましたが、沖縄は全国の面積のたった0.6%に74%の米軍専用施設が置かれ、まさしく戦後70年間、日本の安全保障を支えてきた自負もありますし、無念さもあることはあるんですよね。そういう中で、官房長官のほうからそういったことに対して大変、ご理解がある言葉をもらったわけではありますが、そういうことでありましたら去年の暮れ、今年の初めと、どんなにお忙しかったかわかりませんが、こういった形でお話をさせていただいて、その中から物事を一つひとつ進めるということがありましたら、県民の方も理解はもう少し深くなったと思うんですね。私は日米安保体制が重要だというのは、私の政治の経歴から言っても十二分に理解しております。しかしながら日本の安全保障を日本国民全体で負担をするという気構えがなければ、いま尖閣の話もされましたけれど、たった一県の沖縄県に多くの米軍施設を負担させておいて、日本の国を守るんだと言っても、私はよその国から見ると、その覚悟が大変、どうだろうかと思います。ですから日本国民全体で負担をする中に日本の安全保障、日米安保体制、日米同盟というようなものをしっかりやっていただきたいというのが私の気持ちであります。オスプレイなども、本土のほうで訓練をするという話もありましたけれど、残念ながら基地を、基幹基地を本土に持っていくという話がないもんですから、いずれ訓練をしてみんな沖縄に戻ってくるんじゃないかというそういう危惧は今日まで70年間の歴史からすると十二分に感じられることなんですね。不安がある。そして、どんなに申し上げても米軍の運用に自分たちは口は挟めないというような形で物事が終わってしまいますので、日米地位協定の改定も環境問題もさることながら、抜本的な意味合いでやっていただかないと私は沖縄の危惧するようなものはなかなか日米地位協定の中で解決しにくいと思っています。私は今日まで沖縄県が自ら基地は提供したことはないんだということを強調しておきたいと思います。普天間飛行場もそれ以外の取り沙汰される飛行場、基地も、全部戦争が終わって沖縄県民が収容所に入れられて(地元に)いない中で、あるいはいるところは銃剣とブルドーザーで、いないところは普天間飛行場も含めて基地に変わったんですね。私たちの思いとはまったく別に全て強制接収をされたわけであります。自ら奪っておいてですね、県民に大変な苦しみを今日まで与えて、今や世界一危険だから、普天間危険だから大変だという話になって、その危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と。お前たち代替案は持っているのか、日本の安全保障はどう考えているんだ、と。沖縄県のことも考えているのか、というこういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思っております。日本の国の品格という意味でも、世界から見てもおかしいのではないかなと思っておりまして、この70年間という期間の中で、どれくらいの基地の解決に向けて頑張ってこられたかということの検証を含めて、そのスピードからいうと、責任はどうなるのか、これもなかなか見えてこないと思っています。
一昨年でしたか、サンフランシスコ講和条約の発効の時にお祝いの式典がございました。日本の独立を祝うんだ、若者に夢と希望を与えるんだという話がありましたけれど、沖縄にとっては日本と切り離された悲しい日でありまして、そういった思いがある中で万歳三唱を聞いたりすると、本当に沖縄に対する思いはないのではないかなと率直に思いますね。27年間、サンフランシスコ講和条約で日本の独立と引き換えに、米軍の軍政下に差し出されて、その間、27年の間に日本は高度経済成長を謳歌した。私たちはその中で、米軍との過酷な自治権獲得運動をやってまいりました。想像を絶するようなものでした。官房長官と私は法政大学で一緒でありますけれど、私は22歳までパスポートを持って、ドルで送金を受けて、パスポートで日本に帰ったもんですよ。そういったものを思い浮かべると、あの27年間、沖縄が支えたものは何だったのかなと大変思い出されます。官房長官が「粛々」という言葉を何回も使われるんですよね。僕からすると問答無用という姿勢が大変埋め立て工事に関して、感じられて、その突き進む姿というのはサンフランシスコ講和条約で米軍の軍政下に置かれた沖縄、そしてその時の最高の権力者がキャラウェー高等弁務官だったが、その弁務官が沖縄の自治は神話であると言った。私たちの自治権獲得運動に対して、そのような言葉でキャラウェー高等弁務官がおっしゃって、なかなか物事は進みませんでしたけど、いま官房長官が「粛々と」という言葉をしょっちゅう全国放送で出て参りますと、なんとなくキャラウェー高等弁務官の姿が思い出されて、重なり合わすような、そんな感じがしまして、私たちのこの70年間は何だったのかなというようなことを率直に思っております。プライス勧告と言いまして、27年間の苦しい中でも強制接収された土地をさらにプライスさんという方がおいでになって、強制買い上げをしようとした。とっても貧しい時期でしたから、県民は喉から手が出るほどお金が欲しかったと思うんですけど、みんなで力を合わせてプライス勧告を阻止したんです。ですから、いま私たちは自分たちの手の中に基地が残っているんですね。こういった自治権獲得の歴史を私は「粛々」という言葉には、決して脅かされない、このように思っております。
上から目線の「粛々」という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していくのではないかとこのように思っております。ですから私は辺野古の新基地は絶対に建設することはできないという確信を持っております。こういった県民のパワーというものは、私たちの誇りと自信、祖先に対する思い、将来の子や孫に対する思いというものが全部重なっていますので、私たち一人ひとりの生きざまになってまいりますから、こういう形で粛々と進められるようなものがありましたら、私はこれは絶対に建設することは不可能になるだろうなと思います。そうしますと建設途中で頓挫することによって、起きうる事態はすべて政府の責任でありまして、その過程で見えますね、世界からも注目してますので、日本の民主主義国家としての成熟度が多くの国に見透かされてしまうのではないかと思っています。そして、官房長官にお聞きしたいのは、辺野古基地ができない場合、これはラムズフェルド国防長官が普天間は世界一危険な飛行場だと発言され、官房長官も県民を洗脳するかのように普天間の危険性除去のために辺野古が唯一の政策だとおっしゃってますけど、辺野古ができなければ、本当に普天間を固定化されるのかどうか、これを聞かせていただきたいと思うのですね。ラムズフェルドさんも官房長官も2人とも、多くの識者も、世界一危険な基地だと思っているのに、辺野古ができなかったら固定化ができるのかどうか、これをぜひお聞かせ願いたいと思っています。それから、普天間が返還されて、辺野古にいって4分の1になるんだという話があります。嘉手納以南が返されて相当数返されるというのですが、一昨年、小野寺前防衛大臣がお見えになったとき、一体全体それでどれだけ基地は減るんですか、とお聞きしたら、今の73.8%から、73.1%にしか変わらないんです。0.7%なんです。なぜかというと、那覇軍港もキャンプ・キンザーもみんな県内移設ですから、県内移設でありますので、普天間が4分の1のところにいこうが変わらない。おそらく、官房長官の話を聞いたら、全国民は相当これは進むなと、なかなかやるじゃないかと思っておられるかもしれないけれど、パーセンテージからいうとそういうことです。それからもう一つ、那覇軍港とかキャンプ・キンザーなどは2025年まで、2028年までには返しますと書いてあるんですが、その次に「またはその後」と書いてあるんですよ。これ日本語としてどうなんだろうかと思うんですけどね、2025年、2028年までに返すんだということを書いておいて、その次に「またはその後」という言葉が付いているんですね。これでは、「話クヮッチー」といって沖縄では「話のごちそう」というのがあるんですが、いい話をして、局面を乗り越えたらそのことは知らんぷりというのが戦後70年間の沖縄の基地の問題だったと思うんですよね。いまこうしておっしゃられてオスプレイはどこそこに持っていくんだ、あるいはたくさんの基地が返るんだという話をされても、「またはその後」が付けば、50年くらい軽くかかるんじゃないかという危惧は、沖縄県民はみんな持っているんですね。ですからこういうところをぜひ、ご理解いただきたいと思っています。安倍総理が「日本を取り戻す」という風に、2期目の安倍政権からおっしゃってましたけど、私からすると、日本を取り戻す日本の中に、沖縄は入っているんだろうかなというのが、率直な疑問ですね。それから「戦後レジームからの脱却」ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしているような感じがするんですよ。一方で、憲法改正という形で日本の積極的平和主義を訴えながら、沖縄で戦後レジームの死守をするようなことは、私は本当の意味での国の在り方からいうとなかなか納得がいきにくい、そういうものを持っております。それから昨日、一昨日の官房長官沖縄県民の民意というのがありました。いろいろなものがあってあの選挙は戦ったんだよ、と。だからいろいろあるでしょう、という話がありましたけれど、昨年の名護市長選挙、特に沖縄県知事選挙、衆議院選挙、争点はただ一つだったんですよ。何かというと前知事が埋め立ての承認をしたことに対する審判を問うたんです。ですからテレビ討論、新聞討論、確かに教育、福祉、環境、いろいろあります。いろいろありますが、私と前知事の違いは、埋め立て承認以外には違いがないんです、政策に。ですからあの埋め立て承認の審判が今度の選挙の大きな争点になりまして、その意味で10万票差で当選したということは、もろもろの政策にやったようなものではないんだということをぜひご理解いただきたい。ですから、沖縄県民の辺野古基地の反対というのはですね、県民の圧倒的な考えが示されたものだと思っております。そういうことで、ぜひご理解いただきたいと思います。振興策も話をされておりましたので、私は沖縄県はいろいろ難しいのもあります。例えば、基地があることによって困ったことは何だったかというと、9.11のニューヨークテロでビルに飛行機がぶつかっていった時に、大変なことが起きたと思ったら、1週間後に沖縄に観光客が4割来なくなったんですよ。4割来ないということが大変なこと、あの時の沖縄県の苦しみは大変だったですね。尖閣も、日本固有の領土でありますし、守るというのも結構でありますけどしかしながら尖閣で何か小競り合いがあると、いま石垣島に100万人の観光客が来てますけども、小競り合いがあったら、すぐ100万観光客が10万くらいに減るという危険性も十二分に持っているんですね。ですから私はそういう意味からして、ぜひとも沖縄は平和の中であって初めて沖縄のソフトパワー、自然、歴史、伝統、文化、万国津梁の精神、世界の懸け橋になる、日本のフロントランナーとなる。そういった経済的にもどんどん伸びていって、平和の緩衝地帯として、他の国々と摩擦が起きないような努力の中に沖縄を置くべきだと思うのであって、米軍基地があったりすると、最近はミサイルが発達してますので、1発2発で沖縄が危なくなる。こういったことなども考え合わせると、米軍もアメリカももうちょっと遠いところに行きたがってるんじゃないかな、と。日本のほうがかえってそれを止めて抑止力という形でやっておられるんじゃないかという疑問が大変ございます。アジアを見据える、あるいは中東を見据えるところまで沖縄の基地が使われるんじゃないかと思ってますけど、この辺の根本的なご説明がないと、新辺野古基地はおそらくは難しい。県民の今日までのいろんな思いは絶対に小さくはなりません。もっと大きくなって、この問題に関して私は話が進んでいくと思っています。そういうことで、私は今日官房長官にお話はさせていただきましたが、安倍総理にもこのような形でお話する機会があれば大変ありがたいと思いますけどね、その面談のお手配をお願いしたいと思いますし、基地負担軽減担当大臣でもございますので、ぜひ辺野古の建設の中止をされながら、しっかりと話し合いをして基地問題を解決していただきたいと思っていますので、よろしくお願いを致します。