富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2017-03-03

農暦二月初六。朝起きてiPadでメール見たら“Congratulations!”で何かと思つたら秋の紐育城市馬拉松の出場応募が当たつてゐた。東京馬拉松もずつとダメで紐育も冗談で申し込んだら……。バーMの口開けでドライマティーニ飲み六國酒店の広東料理・粤軒。長野H氏が米国フロリダからの友人R氏を連れて来港にて会食。
▼両陛下の訪越。終戦後も日本に帰らずベトナム独立運動に関はつた残留日本兵ベトナム人妻ら家族と首都ハノイのホテルで対面(朝日新聞)。話を聞きながら「やはり平和が大事ですね」と繰り返す陛下。夫が元日本兵だつた93歳になる女性に、腰をかがめて耳を傾ける天皇(これも晋三は真似して見せるのか)、その女性の前にしゃがみ込み、ずつと手を握つて話を聞く皇后。その老婆が両陛下の帰り際、皇后に「アリガトウゴザイマス」と言つて駆け寄り抱き合ふ。
残留日本兵の父を持つゴー・ザ・カインさん(72)は東日本大震災のときベトナムで支援活動に動いた。皇后さまに「祈ってくださったのですね」と声をかけられると涙があふれて言葉が出なくなった。「我々は常に日本のことを考えております」と話すカインさんに、天皇陛下は「平和というものが大事だと思います」と話した。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12822773.html

なぜこんなことになってしまったのだろう?理由の一つは、発信コストの極端な低下にあるとぼくは思う。ある人がある人があることを思う。あるいは考える。以前ならばそれを身近な人に言った。顔を見て話したか、手紙に書いたか、電話で言ったか、いずれにしてもそこまでだった。到達範囲はごく限られていた。更に先へ届けるにはそれなりのコストがかかった。言い換えれば、遠くに届けるだけの価値があるか否かが査定された。また活字や電波に乗る前に、前提が事実であることの確認作業があった。(略)発信コストが低下して、誰もがごく安易に思ったこと・考えたことを世に送り出せるようになった。そこには校閲やファクト・チェックはないし、もちろん顧問弁護士もいない。素人の言葉が洪水となって報道マーケットを水浸しにする。受け手の方は、それが事実であるか否かを問うことなく、好みのものだけを選択して受け取る。アプリケーションがこの傾向を増幅し、他の意見に接する道を閉ざす。だからなんでもあり、言いたい放題。つまり言ってしまえば勝ちなのだ。メディアは後を追ってチェックをするが、その時には嘘つきは先の方で別の嘘をついている。言論は流動化し液状化する。ずぶずぶとどこまでも沈む。誰もが言うばかりで聞こうとはしない。ドナルド・トランプは実業家としてこういう社会の雰囲気をよく知っていて、それを大統領選に応用した。資本主義の勝利者を貧民が賛美する、というグロテスクな構図が現実のものになった。外野のぼくたちがTrumpabe(トランプ+安倍)などといくら揶揄しても、それは正に蟷螂の斧でしかない。「放射能はアンダーコントロール」という真っ赤な嘘の向こうに崩壊した東芝の社屋や工場が見える。原発のコストもまた国家認定のオルタナティブ・ファクトだった。結局はとんでもなく高いものについた。

石原慎太郎氏「私は素人」「言われるままに判」豊洲市場問題で繰り返す(Huffington Postこちら)「果たし合いに出かける昔の侍の気持ち」で臨んだ会見でこれぢゃ「男らしくない」「女々しい」だろ、慎太郎よ。