富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2014-09-16

農暦八月廿三日。昨晩発令の台風警報8號夜中の内に取り消されるとたかくゝつてゐたら今朝になつても8號のまゝ。それにしてもテレビやラジオ、ネットのニュースは台風での公共交通機関やフライト、病院や役所、証券取引のスケジュールなど刻一刻と流しバス会社のサイト見れば運転手に午前シフトの運転手は定刻で出勤するやう求め出勤のための早朝バスの運行は台風時のT2シフトだとか情報も的確。「特別警戒警報」なんて名前だけは大本営発表で勇ましくても具体的な対応がちぐはぐで結局のところ民草の曖昧な判断に委ねるどこかの国とは大違ひ。午前10時には8號は解除と予告警報で世の中、始業に向けて「さて」と動きだす。仕立て仕事溜まりとても今日はゆっくりしてをられず8號警報出てゐるうちにタクシーで官邸へ。閑散とした銅鑼灣も不思議なら住宅地では街路樹が倒れてゐる。香港から370kmも離れたところ通る台風で8號警報出たのは史上初。それだけ風力は凄かつた。
▼昨日の蘋果日報李香蘭追悼記事で「記者赴日訪李香蘭 無兒女晚年孤寂」と一人の熱心な記者が二年前に東京まで隠遁の山口淑子尋ねた記事あり(こちら)。自宅の電話番号を見つけ突然に電話すると淑子刀自本人が出て中国語も交へ話し取材は一寸考へさせて、と言はれ電話番号遺したが返答なく、もう一度電話すると家政婦が刀自は病床にあり面会は……と拒まれたといふ。それでもこの記者は東京に赴きアポなしで山口邸訪れると寝室に通され体調がよくない、取材に応じられずご免なさいね、といふ李香蘭に記者は会へたといふ。記者はだうしても「当時、漢奸と罵られたことをだう思ひますかか?」と質問したといふが李香蘭は黙して語らず。「對着如此柔弱、淒清的李香蘭,不想再追問了,願她一路好走!」と記事は終はつてゐる。折角会へてこんな陳腐な質問?と思つたが、これに噛みついたのが陶傑兄。今日の蘋果に連載(遇見李香蘭)で

李香蘭年逾九十,是見過戰火風雲的一座寶藏。你如果也懂點人情世故,以後輩的身份,第一句話,要攻其心理,誘使她開口,譬如這樣的開場白:「李女士,我看過您跟長谷川一夫演『白蘭之歌』,您在人力車上對長谷川一笑的那個鏡頭,我一直難忘。」
或者說:「我的爺爺也是在奉天出生的,他告訴過我,奉天的大鍋燉,跟新京的一樣好。」
不錯,你沒看過什麼白蘭之歌,也沒去過瀋陽,你爺爺沒去過滿洲國時代的長春,但這樣開頭,你讓她知道,你了解她的時代,你做了功課。
記者是怎樣出門的,沒有說。我猜想李香蘭會禮貌地送客,關上門,搖頭輕嘆口氣,將記者的小禮物連封紙送進垃圾箱,一個人坐下,端起一杯沒喝完的䖝茶,在暮色裏,一直坐着,直到省覺忘記了開房間裏的燈。

と。確かに。

紐育時報でPaul Krugman教授の“How to Get It Wrong”(こちら