富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2011-04-24

四月廿四日(日)耶蘇の復活祭。今日も朝から官邸でご執務。だうにか一段落、でアトは連休明け。夕方に湾仔。Z嬢と藝術中心で昨晩に続き越南映画二本。Đặng Nhật Minh監督の“When the Tenth Month Comes(十月になれば)”(1984)とViệt Linh監督の“Travelling Circus(Gánh xiếc rong)”で前者はアタシの趣味ではないドラマ仕立てで越戦後の時代の矛盾を伝統的な儒家を舞台に描く。後者は山間の貧しい村が舞台。そこに芸も不達者なサーカスの一団がやつて来る。このアンバランスだけでも「何か起きそう」な予感だがサーカス団は実は山間で金鉱を探し当て、まさに一攫千金を狙う親方が率いている。米作も能わずトウモロコシや芋を痩せた畑で作り、どうにか糊口を凌ぐだけの村人たちは晩に開かれるサーカスも面白くない。サーカスの団長はサーカスでどうにか村人の関心を引きつけ金山探しの人足にしたい魂胆。連夜続くサーカスで村人が虜になつたのが空つぽの籠から白米が現れるマジック。絹布が絶えず出てきても喜ばなかつた村人は白米には目を輝かし、米を齎す団長はまるで教祖様のやうに崇められ毎夜のサーカスは盛況。山間で道に迷ふ、そのサーカス団を集落まで案内してきた幼い少年、ドク。母を亡くし酒でヤキが入つた父親と栄養失調の妹とのどん底の暮らし。サーカス団の美しい女性に憧れ、またどうにか空籠から白米を生む魔術をば得て豊かになりたい、と願ふ。それでなくても貧しい村は男衆が畑仕事を止め山中の金鉱探しに引つぱり出され荒廃。ドクを筆頭に子どもたちも空籠に布を被せ、だうにか白米得ようと苦心するが当然、白米など生まれない。そして、ドクは空籠の術が本当かどうか確かめようと……飢えた妹は……と78分で実に見事な作品なのでござゐます。ドクと妹の子役が見事。感激。バスで鰂魚涌。さすがに太古坊近辺も復活祭連休でひつそり。そのなかにTulsiなる印度料理屋の看板が灯り難民相手の救援所の如く繁盛。こゝは元々、Mother Indiaといふ食肆で当時はかなり贔屓にしたが、そのあとPalkiといつたが一ッ時はあちこち数軒あつた評判の店の一つだつた。印度料理で味の美味い、不味いまでアタシにはよくわからぬがフロア任される青年が信頼をける好印象。
朝日新聞小沢昭一さんがこの震災の被害も広島の焦土や戦後の焼け跡と同じで必ず復興する、としつゝ

戦後はみんなが何もかも失って貧しかった。でもその代わり「自由」なるものを味わって、これにすがりつこうと思い、みんなが希望を持った。(略)だから今回、「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが実はちょっと心配なんであります。いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への逆戻りの道になりゃせんかと、そんな気がするんですね。だから私たちの世代には「絆」ってのはちょっと怖い言葉なんです。耳にタコで、こりごりしてる。でも若い人たちには初めての新鮮な言葉なんでしょう。いつの間にか意味がすり替わらないように、気をつけなくちゃいけませんよ。

と警告。東北はねばり強さだけじゃなくて底抜けに明るいユーモアの心もある。持ち前の逞しさでシブトく立ち直って、とさすが東京人でも東北を歩いてきた人の言葉。