富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

陰暦庚寅年正月初一

fookpaktsuen2010-02-14

陰暦庚寅年正月初一。窓からの視界ゼロの濃霧。細雨。BBC第三台でバレンボイムと伯林国立歌劇場管絃楽団の演奏で貝多芬のピアノ協奏曲三番と五番を聴く。昼前にZ嬢の買ひ物に付き合ひ銅鑼湾。かつては歲晚收爐廿九、三十休息、年初四啟市なんてのが当たり前だつたが飲食店や路面の小売店などさすがに初一の今日こそ休む店こそ多いが大型小売店など軒並み開業。正月くらゐ休めば、と思ふが大陸から春節でこれほどの買ひ物客押し寄せるのだから休んでもおれぬところか。郷原信郎『思考停止社会』(講談社現代新書)讀む。晩は焼いた鯖。納豆でご飯。
▼毎年旧正月は行政長官の祝賀画像楽しみにしてゐたが今年文革曾は市民に嫌はれてゐるの承知でか夫人と二人のツーショット止め当たり障りなき「ヘンな」アニメ版。毒にも薬にもならず。深層的矛盾更に深まるばかり。
▼山崎貞の「英文解釈研究」や「新自修英文典」(いづれも研究社)が覆刻版でさゝやかなブームの由。中学生の頃に自宅の書棚で古い表紙のそれを見つけ開いてみて母の高校生の頃の勉強ぶりに敬服したことふと思ひ出す。
石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞とり話題になつたころなら
これがこの国の現代における新しい文学の可能性の表示なのだろうか。何かがおかしい、何かが興奮し過ぎている、何かが見当違いだ。(略)戦後における自由の空気が氾濫している状況の中で、新しい文学を志す新人たちがただ勝手な気分の高揚とエネルギーのやり場のなさに昏迷しているとの観を免れ得ない。
なんて評論になつたのかしら。今回の芥川賞は受賞作なし。アタシは石原慎太郎は大嫌ひだがこの人の芥川賞選評は好きでいつも讀む。「どうにもかうにも」と題して、たゞ受賞作がないやうに石原の選評もたゞのボヤキ。
これがこの国の現代における新しい文学の可能性の表示なのだろうか。何かがおかしい、何かが衰弱している、何かが見当違いだ。(略)現代における風俗の情報が氾濫している状況の中で、新しい文学を志す新人たちが一種のマイナス・スパイラルに落ちこみ低迷しているとの観を免れ得ない。
石原慎太郎
▼同じ文藝春秋(二月号)の書評で高島俊男による吉田忠則「見えざる隣人」なる在日中国人に関する書の評論が不愉快。中国文学の碩学が中国人社長が多いことに「中国人は人に使われるのがきらいで(略)すぐ独立して自分の会社をおこしちゃうんだそうです」と指摘するが、その独立の何がいけないのかしら。「中国人は中国人同士群れることを好む」のも日本人とて同様。「中国人はそういう人種であるのか、それとも社会主義がこういう人間を生んだのか」つて、さすが「諸君」で健筆揮つた所詮この程度の視野。情けなや。
裁判員制度について。郷原信郎『思考停止社会』より。その特異性。欧州の参審制に近いがその多くは団体等の推薦で任期あり。日本の裁判員制度はむしろ米国の陪審員制に近いが米国は被告が職業裁判官か「国家からの自由」として陪審裁判のいづれか選ぶ権利あり。死刑は欧州は廃止。米国は死刑は残るが陪審裁判の場合に死刑の量刑用件にあたる「事実」の有無は陪審が判断し(日本は裁判所)陪審員の一人でも死刑に反対すれば死刑とならず。日本では官方は「司法の対する国民の理解と信頼につながる」として=国民が司法を理解・信頼してくれてゐない現状の改善のため裁判員制度導入を図り「民」は日弁連の主張は裁判官と検察の親密な関係が司法において不公平で冤罪や誤審を生む温床になつてゐる、と。この官と民の全くことなつた見解だが結果的に「司法への市民参加」はないよりあつた方が良いといふ点でのみ、の一致が今回の裁判員制度導入。
裁判員を関与させることによって、外からの批判が難しくなる。しかも参加した裁判員守秘義務で口が封じられているため中からの批判もなかなかできない状況も担保されている。特定の事件についても、制度全体にしても“国民が決めたこと”になり、何となく、批判しているほうが悪いという雰囲気ができてくるだろう。(Colin P.A. Jones)
でさうした問題がきちんと理解できないまゝ三浦友和主演のドラマやバカで幼稚なイラストや漫画での「市民が参加する」裁判員制度への認識が広まる。郷原氏曰く大切なことは、死刑や無期など含む重罪事件の裁判といふ市民社会とかけ離れた特殊な刑事裁判に市民を参加させたことで司法を市民に理解させ信頼させたとすることでなく「司法の側を、市民に開かれ、理解される方向に変へていくこと」と。御意。
▼この本で郷原氏の指摘することは、何が何でも法令遵守を合言葉に何かあれば「偽装」「隠蔽」「捏造」「改竄」と社会がマスコミに呷られ騒ぐが法令遵守で弊害が生じる大きな原因は社会の変化と多様性。社会が多様になり変化があるとそれらの社会事象と法令内容に乖離が生じ易くなるのは明らか。さらに遵守の姿勢が法令以外にまで拡大。そこで無理に法令を用ゐず、何が大切か、といへば社会規範や倫理。だがその領域まで<コンプライアンス>が侵さうとしてゐるのが今日の日本。著者は法令遵守の異常な思考停止から脱し社会規範に則り法律で解決しなければならぬ問題だけ精確に法律で処理する真の法治社会を目指し、そのためには情況の精確な理解と価値観の共有が大切、と説く。さう、その通りでそれが大切。だが今の日本でさうした規範なり倫理のある社会が崩潰してゐるからこそ社会がより一層悪い方に向かふ。今更さうしたconstitutionalなものをこの国の社会に求めても構築されてきてをらぬのだから、みのもんたな社会では無理なのではないかしら。

思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本 (講談社現代新書)

思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本 (講談社現代新書)

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