富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-11-28

十一月廿八日(土)午前中に中環のマンダリンオリエンタル。N翁と待ち合はせ。N氏は来港されるといつも跑馬地の香港墳場の所謂「日本人墓地」参られるが掃捍埔にありしかつての日本人火葬場と墓地には行かれたことがない(子どものころ以来、の話だが)といふのでご一緒することになる。といつてもアタシも数年前に香港歴史アーカイヴで1909年に当時の在香港日本領事が香港殖民地政府に日本人火葬場の設営を求め批准された当時の文書と図面の写しが手許にあるのみ。で漠然と銅鑼湾の掃捍埔の東華東院病院か佛教黃焯菴小學のあたり、と知るばかりで実地検分してをらず。20世紀初頭の当時このあたりは火葬場建設など認められるだけ郊外で土地も未整備で道路の名前もなく場所の確定には土地につけられたロット番号のみ、が頼り。今朝方慌てゝネットで探るとIL1018 (ILはInland Lotの略)といふ土地が現在のSt. Paul Schoolであり(Caroline Rd=現Leighton Rd)Carl T. Smithといふ英国人による“Notes on the So Kon Po Valley and Village”-Jo]urnal of the HK Branch of the Royal Asiatic Society Vol. 23 (1983)にも今から百年前の日本人による葬場設営の場所がIL1879で「おそらく」今の香港佛教協会学校の場所であらうと記載あり。歴史資料にはこの日本人斎場は附近で病院建設計画あり火葬場は取り壊され墓地は跑馬地の現在の場所に移設と記述があるが肝心の「いつ」が不明。アタシは東華東院がこの地に1929年に建設され、その頃か、つまり日本人斎場は二十年ともたず、と思つてゐたがN氏は幼いころこの斎場の近くで遊んだ記憶がある、といふ。ひとまづN氏へのご説明はこのへんで切り上げ720系統のバスで筲箕灣。バスは湾仔のGloucester Rdを走るがN氏にとつてはこゝは海。六国ホテルが沿岸。銅鑼湾にさしかゝると「このへんに島があつたはず」はHK Royal Yacht ClubのあるKellet島で今は陸続き。太古城に来れば「こゝがドックのあつたところですが、日本郵船の浅間丸もこゝで修理したのでしよふなぁ、と語るのは1937年9月の颱風による浅間丸の香港沖での伊太利客船との接触後の坐礁のこと。Z嬢と三人で越華會で軽く昼食。N氏を香港海防博物館へご案内。今ではビルが立ちはだかるがN氏が小学生の当時、Kennedy Rdにあつた日本人小学校の屋上から鯉魚門が見渡せ日本の軍艦など入つてくるのを眺めてゐた由。 同館のW副館長と邂逅。こちらの方が香港生まれで戦前は香港にお住まひで、とN氏をW副館長に紹介するとW君「お住まひは湾仔でしたか?」とさすが。湾仔利東街に戦前は日本人の商店多く、と暫し、談義。午後遅く筲箕灣からトラムで銅鑼湾。F氏とリーガル香港ホテルで待ち合はせ四人で掃捍埔。St. Paul Schoolの角から銅鑼湾道に入り、先が東院道。何東中学、ヴィクトリア小、嘉道理小と学校が並び、嘉道理とその先の佛教黃焯菴小学の間から入つたところに小さな公園(嘉寧徑休憩処)あり。今まで全く気づかず。こゝから仏教小の裏手の崖は崖崩れ防止でかなり混凝土で固められてしまつてゐるが崖に墓石の台座か?と思はれる石がいくつもあり。佛教黃焯菴小学はちやうど開校五十周年祝賀。この場所で政府から24千sqfの土地の提供を受け1959年に学校建設、と銘記あり。大谷光瑞師が香港に立ち寄り1919年に建立の萬霊塔は昭和初期の写真で見るとこの地にあり(1982年に現在の跑馬地の墓地に移転)。この仏教小学への聞き取り、IL1879の土地ロットの精確な確認、萬霊塔の土台石など確認すべきこといくつかあり。掃捍埔をぐるりと散歩して南華体育會。ゴルフ打ちつぱなし屋上のビアガーデンで麦酒飲む。日暮れて四人でそのまゝ銅鑼湾の百樂潮州料理店に食す。N氏をバーSにお連れしてする。歴史談尽きず。晩十時にお開き。

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