富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-04-15

四月十五日(水)夕方から雨模様。ご執務強制終了で尖沙咀のJimmy's KitchenでZ嬢と待ち合はせ。ドライマティーニハウスワインはCasas del Basqueのレゼルヴ Sau. Bの07年をグラスに一杯。舌平目のムニエルと野菜とハーブのコートレット風をZ嬢とシェア。本格的に雨降り。香港文化中心。香港初見参、のマウリツィオ=ポリーニのピアノリサイタル。アタシの人生の中ではヴィルヘルム=ケンプ以来の大物のピアノリサイタル。しかも香港。アタシが中学生の時、同級生にHさんといふ双子の姉妹あり。中学三年で同じクラスになつた姉の方がピアノが学校で一番上手であつたが「かなり個性的」でよく茶化してゐて、あれが「いぢめ」ぢやなかつたのか、といはれると困るがH嬢本人が泣いたり学校を休んだりノイローゼになつたりもなく……と「いぢめてゐる方にはいぢめられる子の気持ちなんてわかりません」といはれたらそれ迄だが、とにかくよく茶化してゐた。その理由の一つがピアノ好きなのは良いがポリーニ、それも当時、まだ四十歳くらゐだつただらう、本当に貴公子然としたポリーニを彼女は惚れ込んでゐて、いつも「嗚呼、ポリーニ様、なんて素敵なのかしら。一度で良いから一目お会ひしたい」なんて芝居がかつた口調で休み時間とか宣つてゐるから「Hさんに恋ひ焦れられるポリーニもさぞや不憫」なんてツッコンでゐたものだつた。で、話は数十年飛ぶが今年の三月朔日、一晩だけ帰省した翌日、昼を食べて成田に向はうと郷里の駅近くをトランク推しながら母と歩いてゐたら向ふから来たご夫妻に母が挨拶して「覚えてゐない?、Hさんのお母様」と母に言はれ「中学生の頃、お嬢様をさぞや茶化して」と心の中でお詫びしつゝご挨拶。で「さういへばHさんつてポリーニが好きだつた」と思ひ出し、で香港に戻るとZ嬢に「ポリーニが来港よ」と教へられ、何たる偶然か、と驚いたのが今晩のポリーニのリサイタル。S席がHK$980は香港ではかなり高値。だが五月中旬には東京と大阪だが燦鳥ホールと比べたら半額で燦鳥のD席(末席)が香港のS席なのが何とも……。でもさすがポリーニで香港で最初の(そしておそらく最後の)リサイタルであるから発売当日で即売り切れ。Z嬢もよくぞ良席をゲットしたもの。照明の具合も宜しく舞台にはポリーニといへば、のスタインウェイのFabbriniが据ゑられてゐるのを見ただけで、ちよつとぞく/\つと身震ひ。そして香港文化中心の(音響の悪さ以上に)最大の難点である冷房の空調も抑へられ、あの不愉快な送風音に悩まされずポリーニが聴けさう。でマウリツィオ=ポリーニの登場。あの貴公子然としたポリーニがすつかり年をとつたが枯れた感じがまた佳し。今晩はショパンづくし。前奏曲 嬰ハ短調 op.45、バラード二番 ヘ長調 op.38、ソナタ第2番 変ロ短調 op.35、スケルツォ一番 ロ短調 op.20、で中入り。後半は四つのマズルカ op.33、子守歌(Berceuse)op.57、でお終いがポロネーズ六番 変イ長調 op.53「英雄」といふ具合。アタシにとつてのポリーニは中学生の頃に聴いた(Hさんにレコードを借りた覚えはない)、とにかく華麗な、難曲を見事に完ぺきに弾きこなすポリーニで、今晩のバラードの二番はそんな華麗さから遠い、優しさ。マズルカを、大きな息づかひ、時をり歌ひながら弾かれてしまふと、若い頃のあの精緻さよりずつと聴いて嬉しく、ポリーニがミスタッチをするのもどこか安堵のやうな気分。アタシとしては今晩の楽曲ではベルーソーが極上。ポロネーズ六番「英雄」も晩年のホロヴィッツのこの曲を聴くとホロヴィッツが冷戦の時代のまさに20世紀後半的な世界にゐるのに対して、今晩のポリーニのそれはまさに冷戦も20世紀も終はつたあとの「英雄不在」となつた時代の「英雄への回憶」のやう。力強いやうで脆さや陰りが窺へる。完ぺきな演奏を越えた向ふにある、あのショパンをかう「歌ふ」か、の奏致なのだ。アンコールは、もう戦火混乱のやうな「革命のエチュード」、二曲目に所謂「のだめのエチュード」10の四、でバラードの一番……だらう、多分。だいぶ曲も良い意味で乱れて何度も拍手に応じて舞台に戻り、のアンコールも三十分に達しようか、とするところ、にノクターンの16番を弾き終はると客席の照明が、まるで白光の花火のやうにパツと明るくなり(こんなタイミング良い演出は香港文化中心ではアタシは初めて)、ポリーニが両手をあげて四方八方の客に応へる。何ともポリーニでしか味はへない一晩の幻のやうなリサイタルとなつた。

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富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/

ショパン・リサイタル

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