富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-03-18

三月十八日(火)香港国際映画祭開幕。早晩より湾仔のコンヴェンションセンターにて開幕記念で山田洋次監督『母べえ』上映。山田監督と浅野忠信氏来港で舞台挨拶。日本語での挨拶を英語に通訳してゐるのが旧知のSさん。英語も達者だが通訳に非ず映画評論などされるSさんだから通訳の表現が見事。それにしてもこの映画祭、恒例の開幕記念=山田監督つて、それはそれで、他に本当に選択がないのかしら。で『母べえ』は、今の日本で日本映画代表する監督が左派リベラルである、とそれだけでも驚きだし松竹が岩波映画ぢやあるまいし國軆に反し(笑)このやうな左派リベラルの作品の製作・供給するだけでも時節柄、稀。八十助(ぢやない、今は三津五郎)が好演の、治安維持法抵触の左翼学者が転向せず獄中死はさながら三木清か、その妻(吉永小百合)と娘、先生の妻に恋心もつ青年(浅野)の、戦前の日本の良心。この監督の、この反戦リベラルの思想が『男はつらいよ』の、あの大衆性と、どう繋がるのか、と思ひつつ『母べえ』を観る。『男は』の、あの柴又の大衆は世が世なら大日本帝国万歳!と翼賛体制に加担。山田洋次が愛しく映す、この左翼知識人と反動的大衆は対峙してゐないか、と。監督自身ではヘーゲル的にこの二者が等しくできるのかも知れぬ。が『母べえ』は左翼リベラリズム的なところが「見ても嬉しくない」右派も「寅さんは日本の心の故郷」と思へるところに大きな矛盾がないか。で、アタシなりにこの疑問の答へとなつたことは、『男は』のあの柴又の人々は、山田洋次の理想的な人間像であり社会であり、非現実である、といふこと。世の中の現実があまりに辛辣で悲しみも多くあるから、せめて映画の世界だけでも柴又の、あの世界を共有して楽しい時間を過ごしてください、と、さういふことか、と今ごろになつて勝手にさう理解。この監督の本来の理想は、この『母べえ』の左翼学者が自由に思索し意見の発表が出来る社会なのだらう。……で、そこまではいい。がアタシは、この映画は「1941年の12月8日の太平洋戦争勃発のところで止めてゐれば名作だつた」と痛切に感じる。時計でいへば110分の長さ。夫が思想犯として囚はれ妻は夫の信念に共鳴して懸命に娘を育て、だが12月8日になり、さてどうなるか……でフィルムを終へてしまふ。あとは皆さんご自身で考へてみてください、歴史を。どうかしら。これなら名作。だが山田洋次はここからが(アタシはそれを厭ふが)本領発揮。真田広之主演の侍物でも梲の上がらぬ下級侍が憎い相手を殺つて、で、そこで終はれ木枯紋次郎や座頭市のやうに傑作なのだが、アトが続く、のと一緒。『母べえ』は戦時中の場面になると、戦前の時代を描く左翼リベラリズムが、どんどん人情物に。それを眺めつつ「どうぞ、戦後から突然、現代=年老い母べえの死に際にはいかないで」と願つたが、案の定、舞台となつた江東区住吉なのか、中学校の場面が映り教師となつてゐる次女が母危篤で病院に駆けつけ母の死を看とる。それはそれで一つの物語の完結だが、戦後のこの物語で戦前の左翼リベラリズム的な要素がすべて帳消しとなり「誰が見ても涙する」大政翼賛的な一億総感動。かう出来ることで単なる左翼リベラリズムに陥らないところが謂はば「国民映画」の山田洋次の真骨頂といへばその通りだが、結果、果たして「感動」以外の何が残るの?、と『男は』の看後感と同じ疑問にアタシは陥る。結局、世の中なんて何も良くならないぢやない、と。それなら前述のやうに12月8日でピタリと止めて、観衆に「その後、どんな歴史になるか」深刻に考へさせるのが監督の使命ぢやないか、と思ふ。……で『母べえ』の終演、エンディングロールが流れるなか回想の場面が映り「おそらく」山ちやんの母べえへの思ひが語られる場面、「おそらく」と書いたのは、今晩、このエンディングロールで場内の照明が明るくなるのは香港では悲しいかな常識だが、なんと語りの音が消され、そこで「本終映後、ロビーにて本映画祭の開幕式が開催されます。VIPチケットをお持ちの方は舞台左手の扉から開幕式会場へ、それ以外の方は客席後方の出口から出てください」と大音量で広東語、英語(とそれに確か普通話も?)で1度ならずも2度、3度と繰り返され、さすがに客席からブーイング。語りの最後の方でやつとアナウンス途切れ映画の語りが流れるが、最後の最後。このアナウンスで映画上映台無し。香港が「映画の都」のやうなこと言つても、所詮、かつて娯楽映画が大量生産されただけで映画俳優がスターとちやほやされギャラがあがるだけでロクな映画製作もできぬ、マトモな観客も育つてをらぬ現状、今晩とて真摯に映画、それも戦争映画を開幕上映に選んだのだ、を看てゐたところで、今晩の華はスターたちが深紅の絨毯の上を歩き現れて開幕式典で脚光浴びる、それだけ。この映画祭、開幕式典の関係者や芸人のいつたい何人が『母べえ』の上映の看たか(皆無)、開幕上映前の舞台挨拶に続き開幕式典でも舞台上で挨拶する山田洋次監督が自分の映画がどんな無惨な扱ひをされたかを知る術もなし。同じ映画看てゐたZ嬢と「まつたく、何だい、あのエンディングは」と呆れつつ湾仔の北京餃子皇で夕食。Z嬢帰宅しアタシ独り次の開幕記念上映『蝴蝶』( 監督:張作驥、07年、台湾)看る。台湾の鄙びた港町と蘭嶼の島を舞台に、蘭嶼に住まふ少数民族の女と日本人の渡世人の間に生まれた青年を主人公に、なんか微妙にアイデンティティのやうなものを扱ふもので台湾のマイナー映画らしさ格別なのだが……アタシにはこれはさつぱり理解できず。途中で席を立つ観客少なからず。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/
富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/